青森県・津軽、三八上北へぶらりと…
★中町こみせ通り(黒石市)
江戸時代より冬の積雪や吹雪・夏の日差しから来店客を守るための屋根(アーケード)がかかった通り。
今では静かな通りですが、立ち並ぶ重厚な屋敷を見ながらこの「こみせ通り」(アーケード街)を歩くと当時の繁栄ぶりをうかがい知ることができます。
黒石の名物は焼きそばのようで「黒石焼きそば」を注文。
焼きうどん?と思ってしまったが、甘辛いソースで焼きそばと改めて認識です。
本当は、和風だしの“つゆ”をかけて食べる「つゆ焼きそば」を食べるのが正解だったようで、後日に津軽の方に食べた意味がないと指摘されてしまいました。
★こぎん刺し
寒冷のため綿花が育たない風土、1724年の「農家倹約分限令」により農民は仕事着・普段着ともに木綿を使用することが禁じられために紺の麻布を着ていました。
麻布は繊維が荒いため冬の寒さを防ぐことができず、麻糸で布目を埋めることで冬の厳しい季節を耐えたことがこぎん刺しの始まりです。
こぎんの語源は「小布」「小巾」と津軽地方における野良着のことをそう呼んだため、その名前が付いたと言われてます。
明治期には綿糸が手に入りやすくなり、明治20年頃には他の刺し手と競い合うようにさまざまな柄が生まれたようです。
津軽こぎん刺しには、野良着において弘前市東部の小柄な単独模様を繰り返す「東こぎん」、肩に縞模様があり背中に魔除けの模様がある西部の「西こぎん」、金木周辺の3本の縞模様が特徴の「三縞こぎん」がありそれぞれに特徴があります。
明治24年以降に鉄道が発達して木綿の着物が入るようになってから手間のかかるこぎん刺しは急速に廃れていきましたが、名も無き職人が生み出したくらしの中の日用品に「用の美」を見出す「民藝運動」によって、再び注目を浴びるようになりました。
厳しい風土とその生活の中から生まれ育まれた「こぎん刺し」は、このように現代においてもその地域の歴史を受け継ぐ大事な要素となり特徴ある工芸となっています。
★三内丸山遺跡
約5500年前~4000年前の縄文時代の大規模な集落跡で、平成15年に国指定史跡に指定されました。
江戸幕府の始まりが1603年、応仁の乱が1467年、大化の改新が646年…それよりも遥かに昔々です。
いつの間にか、大化の改新が645年→646年に変わってました。
そんなテスト問題では1年の違いでバツをくらうのに、縄文時代の大雑把な昔っぷりには1年の違いは意味がないです。
まったくもってその時代の生活様式を想像できないのですが、展示物には現代ではオシャレなアイテムになりそうな「縄文ポシェット」と呼ばれる樹皮を編んだ袋、中にはクルミ入りが飾られて(展示されて)います。
漆塗りのお皿があったり、クリや山菜、マメ類、イノシシ、シカ、フグも含めた魚類などを食べたり果実酒を飲んだり、ヒスイや黒曜石などの他地域との交易などと規模の大小の違いはあれど今の生活様式とはあまり相違ないように感じます。
もしかしてこの時代に生まれても楽しいかも…と思わされてしまいます。
これは、併設されたレストランで、古代米をクリ・ホタテ・山菜で炊き上げた「縄文古代飯おにぎり」を現代風で美味しく食べたのが原因かもしれません。
しかしながら、豊富な資源で楽しく暮らしていてもいずれ終焉を迎えます。
遺跡付近の海水温が2.0℃下がったことによる寒冷化が原因で、当時の縄文人はその場を放棄せざるを得なかったそうです。たかが2.0℃と考えてしまいますが、全盛時の遺跡付近が現在の仙台の気候だったとのことです。
なので現在のクリ林は山形県ないし宮城県南部以下の南に限られており、2.0℃下がったことの環境の変化による木の実などの食料不足が原因で居住場所を変える必要があったようです。
やはり、暖かい部屋と美味しい食べ物がどこでも手に入る現代が一番です…