天竜川が流れる村へぶらりと…
「水上は 雲より出て 鱗ほど なみのさかまく 天龍の川」(東海道中膝栗毛)
長野県の最南端、諏訪湖を源にした「天竜川」が村の中央を南北に流れ、温暖な気候のため信州の春を最初に告げる村でもあり、面積の約93%を森林が占めている『天龍村(てんりゅうむら)』。
心地よい風と柔らかな日差しに照らされたとある日、こんもりとした山々の間から流れてくる翠玉色の川をじっと眺めていると、この抱えきれない大きな自然にいずれ飲み込まれてしまうのではないかと感じてしまいます。
天竜川は、長野県の諏訪湖を源に伊那谷を通り南下し、愛知県そして静岡県の太平洋・遠州灘へと注ぐ全長213kmの河川です。
「いみじくくるしければ 天ちうといふ河のつらに かりやつくりまうけたりければ そこにて日ごろすぐるほどにぞ やうやうをこたる」(更級日記)
平安時代に編纂された続日本紀では「麁玉河(あらたまがわ)」、その後は「廣瀬河(ひろせがわ)」「天中(てんちゅう)」、鎌倉時代に成立した吾妻鏡では「天龍河」、そして古地図には「天流川」と記されており、室町時代から江戸時代にかけて「天竜川(天龍川)」の名が定着していきます。
天から降った雨が川の流れになり、その流れが速く、竜が天に昇っていくかのように見えるというところから天竜川とも、天上の竜神に由来するとも言われています。
天竜川にかかる赤い吊り橋の天竜橋を渡っていると、左前方の緑の景色の中に秘境駅の一つとして数えられる1936年(昭和11年)に開業されたJR東海飯田線「為栗(してぐり)駅」の白い駅舎が見えてきます。
開業当時には周囲に集落がありましたが、1952年(昭和27年)の平岡ダムの完成によって天竜川の水位が上がったことで集落が水没し、為栗駅は孤立することになります。
単式ホーム1面1線の為栗駅は、一日に数人ほど利用する無人駅です。
天竜川を背にした駅舎内のベンチに座っていると、その左隅に「旅の思い出・駅ノート」と記されたノートの束が置かれているのに気づき、ぺらぺらとめくってどこの誰とも知れないメッセージに目を通すと、この駅に魅力を感じ足を運んだ多くの人たちと時は違えど同じ空間を共有したのだと感じさせてくれます。
プラットホームの端から一方の端までゆっくりと周囲を見渡しながら歩いたり、他の誰かが吊り橋を渡ってくるような気配もなく天竜川によって隔絶されているこの空間を満喫します。
そろそろ電車が到着する時間が近くなり耳を澄ますと、そよぐ風や鳥の鳴き声の中からガタンゴトンと微かに聞こえてくると妙に心が浮き立ってきます。
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「水のあわの うき世にわたる ほどを見よ はや瀬の小舟 竿もやすめず」(十六夜日記)
天竜川は別名「暴れ天竜」とも呼ばれていました。
多数の支流が流れ込む天竜川は強い雨が降ると容易に増水し洪水を引き起こし、過去に幾度も氾濫し多くの人が亡くなりました。
台風の接近と梅雨前線の停滞により一日で325mmの降雨量を記録した1961年(昭和36年)の三六災害では土石流などの土砂災害が集落の一つを押し流し、1715年(正徳5年)の梅雨時に降った豪雨は川の氾濫を引き起こし「未満水(ひつじまんすい)」と呼ばれる記録上最大規模の災害で「その昼下がり、瞬刻にして地獄絵を見るような惨状」などと当時の状況を表す記述が飯田世代記にて伝えられています。
現在では15基のダムが建設されたことで暴れ天竜が抑え込まれ、水力発電用のダムによって安定した電力を供給してくれる大いなる川として活用されています。
為栗駅から南へ下ると、かつての暴れ天竜が創り上げた名所「信濃恋し」が見えてきます。
天竜川の急流が岸壁とぶつかり合うことで周囲が削り取られたため、川の流れがいったん上流へ押し戻すようになり、三河遠州へと下る際に天竜川流域で切り出した丸太で組んだ筏(いかだ)のへさきがいったん上流へと向きを変えてしまい、あたかも丸太が「信濃の国が恋しい」と訴えているようで、いつしかこの場所を信濃恋しと呼ぶようになったと伝えられています。
また、信濃恋しに小石を投げると恋が叶うという縁結びの伝説も伝えられており、足元の白い小石を見つけて投げ込んだが今のところ叶う気配がないので、やはり伝説に過ぎないのでしょう。
くねくねと蛇行した天竜川を道に沿って南下していくと、天竜川の水を貯め込んだ白いコンクリートに16門の赤いラジアルゲートを持った1952年(昭和27年)に完成した高さ62.5m・長さ258m、最大で101,000kWを出力する「平岡ダム」が現れます。
平岡ダムの完成時には東洋一と謳われ、太平洋戦争後の日本経済の復興に貢献しました。
名古屋方面の軍需産業に大量の電力を供給することを目的に太平洋戦争前の1940年(昭和15年)に建設が始まった平岡ダムは、大きな負の側面を持つことになります。
日本人は召集や徴用に取られてしまったことにより外国人による強制労働が行われたダムの一つであり、朝鮮人の出稼ぎ労働者と強制労働者、さらには労働力不足を補うために強制連行された中国人、米国および英国などの連合国軍捕虜の計3,000人以上が、1945年(昭和20年)の太平洋戦争の終戦直前まで満足な食事や寝床を与えられずにツルハシなどを使った人力に頼る過酷な労働に従事させられていました。
そのため、ダムの完成までの期間に飢えや病気・事故によって多くの犠牲者を出すことになりました。
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「自然を大切にし、水と緑と空の美しい村をつくります」(天龍村民憲章)
水位が下がって川底が見えている天竜川を右手に道を少し歩くと、背を山を囲まれた集落が見えてきます。
この集落は、1956年(昭和31年)に平岡村と神原村が合併してできた人口1,100人ほどの約630世帯が暮らす天龍村の中心地です。
江戸幕府の天領地でもあり古来より材木の産地として天竜川の恩恵を受け発展してきた平岡村と神原村の両村、ダムが建設されたことで以前のような荒々しくも清麗な姿を見せなくなったかつての天竜川を思い、天に昇る竜の勢いを持って新しい村を奮起する意が天龍村の名に込められています。
山に向かって緩やかな斜面に多くの家屋が建ち、食品スーパーや銀行・郵便局などの店舗や診療所が集落の南北を通る国道418号沿いにそろっており、高齢者が比較的多い天龍村でも日常生活には困らなさそうです。
集落の中の国道418号に面しているJR東海飯田線「平岡駅」の駅舎には温泉・宿泊施設が併設されており、裏手には島式ホーム1面2線と側線を備え、北は長野県の辰野駅・南は愛知県の豊橋駅までを結んでいます。
他にも総合体育施設や図書館・キャンプ場などといった四方を山で囲まれた天龍村で末永く暮らしていける施設が整っており、夏には小学校児童による天龍熊伏太鼓の演奏や盆踊りなどが開催される夏まつり、秋には周囲の山々が見事に紅葉し、冬には太陽の力の復活を願い湯立てと舞が繰り返される霜月神楽、そして春になると長野県でいち早く梅や桜が咲く山村として、天龍村の伝統や豊かな自然の魅力が発信されています。
「閑林獨坐草堂暁 三寶之聲聞一鳥 一鳥有聲人有心 聲心雲水倶了了」(空海「後夜聞佛法僧鳥」)
十年以上前に大都市から移住してきたけれども、都会には当然あるような娯楽施設がない天龍村に対して楽しさも魅力も感じることはなかった。
でも、「ブッポウソウ」に出会ったことが人生の大きな転機となったと語ってくれました。
ブッポウソウ(仏法僧)は、瑠璃色に光り輝く雌雄同色の体長30cmほどの身体に赤い嘴(くちばし)を持つ「緑の宝石(森の宝石)」とも呼ばれる美しい夏鳥です。
エサとしてトンボやクワガタ・セミなどの獲物を空中で捕らえ、時には沢ガニを捕まえて食べることもあります。
古来より社寺林を訪れるこの美しい鳥を人々は霊鳥として崇められ、平安時代から千年以上にわたって「ブッポウソー」と鳴くとずっと信じられてきました。
実際の鳴き声は「ゲッ ゲッ」と濁っており、「ブッポウソー」と鳴くのは小型のフクロウであるコノハズク(木葉木菟)だと判明したのは1936年(昭和11年)のことでした。
コノハズクが夜間に「ブッポウソー」と鳴くのでその姿が分からなかったこと、ブッポウソウの美しい姿に惑わされたこと、さらにコノハズクとブッポウソウの生息域が重なっていたことが鳴き声の誤解を招いたとされています。
現在は環境省の絶滅危惧種に指定されているブッポウソウは、ブナ林などの洞のある森林の減少や社寺林近郊の宅地開発などを原因として減少し、長野県内での生息域は南部の天龍村と中川村以外には北端の栄村に限られています。
また、ブッポウソウは自分で巣穴を作らず、キツツキが木製電柱にあけた穴を使って営巣することが多かったため、1980年代末に木製電柱がコンクリート化したことで営巣数が減少したと考えられています。
天龍村の村鳥にもなっているブッポウソウが、繁殖のために飛来してくるのは5月の初め頃とのこと。
ブッポウソウを迎えるために、小学校の子ども達が毎年つくる巣箱を村内の橋の欄干などに設置する巣箱掛けを行い、6月下旬までは卵が無事にふ化できるように見守ったり、親鳥がエサをせっせと運ぶ姿を写真に収めるため愛鳥家が集うのでブッポウソウに迷惑が及ばないように段取りをしたり、7月下旬に雛が飛び立つのを立ち会ったりと毎日が忙しいと言います。
翌年、成長を見守ったブッポウソウが天龍村に戻ってきて飛び回る姿をカメラで撮影することが何よりも楽しいと、飾られたブッポウソウの写真を見ながら笑顔で語る純な姿に心を打たれました。
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「果肉は柔らかく、種は少なく、甘味が強い。」
天龍村では長さ30cm・重さ1kgにもなるナス「ていざなす」が栽培されています。
1887年(明治20年)頃に田井澤氏が東京の種苗店から種子を取り寄せたことで栽培が始まったといわれ、当初は「たいざわなす(田井澤なす)」と命名されますが、地元からは「てぃざなす」と親しみを込めて呼ばれるようになりました。
栽培され始めてから100年あまりは市場に出ることはなく、ほぼ地元でのみ消費されていました。
天龍村の新たな名産にすべく生産組合が2007年(平成19年)に発足したことで、ていざなすの名は村外にも知られていくことになります。
油で揚げられた半身のていざなす、その黄金色の果肉にかけられたちょっと味の濃い肉味噌。
天龍村の山のように小高くて長い、スプーンですくって食べてみるとその果肉は柔らかく肉味噌との相性はなかなか良いようで、ご飯が進みます。
これまで、ナスの味噌田楽だけを主のおかずとしてご飯を食べたことがなかったけど、圧倒的な存在感を放つこのていざなすだけでおかずはもう十分だと断言します。
日に照らされた天竜川と山々の美しい景色を巡れただけでなく、天龍村で出会った笑顔のすてきな人々からはいろいろな話を聞かせていただき、名品ていざなすの美味しさだけではない素晴らしい一日を過ごすことができました。
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天龍村に響く鳥の声と人の心、さらに山中の雲と川の流れとが一つに融け合っていくこと。
天龍村の南北に流れる天竜川は今でも豊かな水量を誇り、周囲の山々と一体となって四季それぞれの素晴らしい景色を訪れる人々に見せてくれます。
過去には荒れ狂った姿を見せた天竜川は、ダムという枷をつながれてからはその姿を現すことは少なくなりました。
何千年とこの川と向き合い変化してきたこの地、この川を麁玉河から天竜川と呼ぶ現在までの時の分だけ人間が関わり、自然の成り行きとは違う歴史を築いてきました。
自然を変えようとした人々、変えようとしたことで犠牲となった人々、変わってしまった自然を取り戻そうとする人々など、さまざまな出来事や思いが入り交じり今日の天龍村へと形作られていったのだろうと、日が沈み漆黒に変わりつつある天竜川をじっと眺めながら考えてしまいます。
写真・文 / ミゾグチ ジュン