二見浦の夫婦岩へぶらりと…
「ます鏡 二見の浦に みがかれて 神風きよき 夏の夜の月」(藤原定家「拾遺愚草」より)
三重県伊勢市、伊勢神宮内宮の南方深く剣峠麓を源とする「五十鈴川(いすずがわ)」が河口に向け二手に分かれたことで生み出された三角州状の地であり、伊勢湾に面した海浜とその背後の常緑広葉樹が広がる丘陵地に「音無山(おとなしやま)」が連なった辺り一帯である『二見浦(ふたみうら, ふたみがうら)』。
二見の由来には、伊勢神宮の神域を通り流れる五十鈴川が伊勢湾に流れる際に分かれ二手に挟まれる地として「二水」、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御魂を鎮座する宮処を求め各地を旅していた「倭姫命(やまとひめのみこと)」が船から白い浜の広がる美しい景色を眺めた際に仕えていた大若子命(おおわかこのみこと)に国の名を問うと「速両二見國」(すでに二度この地を見ている国です)と答えたことで「二見」と言われるようになったなどの説があります。
「神風や 五十鈴の川の宮柱 いく千世すめと たてはじめけむ」(藤原俊成「新古今和歌集」より)
二見浦は伊勢湾に対して弧状に面しており、その反面を五十鈴川の本流と派川(はせん)の二本で囲まれることで三角州状の地形を形成しています。
伊勢湾に注ぐ全長約20kmの五十鈴川は「皇大神宮(こうたいじんぐう)」の神域を流れる清流で、川の流れと沁みる情景が神と結びつくことで数多くの和歌が古来より詠まれてきました。
「是神風伊勢國 則常世之浪重浪帰國也 傍國可怜國也 欲居是國」(日本書紀)
垂仁天皇25年(紀元前4年)、第11代垂仁天皇の皇女である倭姫命が日本人の総氏神である天照大御神を末永く祀ることができる鎮座地を求めて大和国から長い年月をかけて旅をし伊勢国に入ると、天照大御神から「伊勢国は、常世からの波がしきりに打ち寄せる国で、大和国のそばの美しい国です。この国にいたいと思う。」と告げられます。
倭姫命は伊勢国に祠を立て、五十鈴川のほとりに磯宮(いそのみや)を立てたことで天照大御神が初めて天より降り立ちました。
天照大御神を祀った磯宮が皇大神宮の始まりとなり、皇大神宮を参宮される前には五十鈴川で身を清めることが古来からの習わしとなっています。
皇大神宮は内宮(伊勢神宮内宮)とも呼ばれ、別に五十鈴宮(いすずのみや)とも称されています。
「倭姫命御裳裔長 計加礼侍介留於洗給倍利 従其以降 際号御裳須曽河也」(大和姫命世紀)
天照大御神の御魂が鎮座されるまでの長い旅で、倭姫命の御裳(みも)の長い裾(裔, すそ)は汚れおり、その裾を五十鈴川で濯いだ(洗った)ことから、五十鈴川は「御裳濯川(みもすそがわ)」(御裳須曽河)とも呼ばれるようになります。
「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」(平時子「平家物語」より)
平氏が滅亡する1185年(元暦2年 / 寿永4年)の長門国赤間関壇ノ浦。
平清盛の孫にあたり伊勢平氏の血を引く安徳天皇(1178-1185)は、祖母の二位尼(にいのあま, 平時子)に「伊勢の御裳濯川の流れを汲むあなたには、波の下にも治める都があるのですよ。」と言い聞かされ、二位尼に抱かれて船から暗い海の底へと向かったと伝えられています。
皇室の祖先の神と仰がれる天照大御神を祀る皇大神宮の神域を流れる御裳濯川には、皇統(天皇の血筋)の流れを表す意が込められています。
幼くして命を落とした安徳天皇を思ったのか、いつからか壇ノ浦へ流れ込む小さな川に御裳川(みもすそがわ)の名がつけられています。
「今度大地震の高塩ニ、大湊ニハ家千間余、人五千人許流死ト云々、其外伊勢島間ニ彼是一万人許モ流死也」(内宮子良館記)
1498年(明応7年)に南海トラフ沿いで発生した明応地震は最大震度6弱・マグニチュード8.2〜8.4の巨大地震を引き起こし、伊勢湾を襲った津波は高さ6〜10メートルにもなり、伊勢・志摩においては一万人余りの人々が流され亡くなったとされています。
地震は五十鈴川の流れも変えてしまい、細流だった汐合川は津波によって削られ川幅が広がったため五十鈴川の本流に取って代わり、かつての本流が現在の派川になってしまいました。
「二見潟 神さびたてる 御塩殿 幾千代みちぬ 松かげにして」(鴨長明「伊勢記」より)
倭姫命が二見の浜に着いた時に出迎えた「佐見都日女(さみつひめ)」に、あなたの国の名はと問いましたが、佐見都日女からの返答がありませんでした。
その後も佐見都日女は倭姫命の問いには一切答えることなく、その代わりにたくさんの堅塩(焼き固めた塩)を献上しました。
実は、佐見都日女の耳が不自由であることを知った倭姫命は、その誠実な姿に慈しみを感じて堅多神社(堅田神社)を定め、大若子命は浜を御塩浜、ならびに周囲の丘陵地を御塩山と定めました。
その後も、変わらない手法で二千年以上にわたり五十鈴川の河口近くの御塩浜で塩を採取し、二見浦の御塩殿で三角錐形の土器に詰め焼き固めて作られる堅塩は、神祇に供える神饌(しんせん)または修祓(しゅうふつ)の清めとして神宮(伊勢神宮)に奉納されています。
「逆艫おす 立石崎の 白波は あしきしほにも かかりけるかな」(西行)
二見浦には山頂から伊勢湾を一望でき、三角州には通常形成されない標高119.8mの独立丘陵の山があります。
倭姫命が耳の不自由な佐見都日女にこの山の名を問いましたが返答ができず、佐見都日女からの音沙汰が無かったことから音無山と名付けられたと伝えられています。
音無山の海岸部に突出した部分が波浪浸食されたことで大小の離れ岩をつくり出し、その岬は「立石崎」と呼ばれます。
立石崎の北東沖に六町(約654m)の海底に、海の遙か彼方にある常世国(とこよのくに)から神々が降臨する際に最初に寄りつく岩である「興玉神石(おきたましんせき)」が鎮座しています。
興玉神石は、道開きの神である猿田彦大神(さるたひこおおかみ)が倭姫命を出迎えるために降り立った霊石であるとも伝えられています。
潮干の時には岩頭が現れる東西二町(約218m)・南北一町(約109m)の一大平岩の興玉神石を拝するため、立石崎の大きい岩と小さい岩を興玉神石の門石(鳥居)として見立てました。
大きい岩は立石、そして小さい岩は根尻岩と呼び、両岩で「立石」と称し、鎌倉時代後期の1295年頃に制作された「伊勢新名所絵歌合」の図絵には注連縄(しめなわ)がまだ描かれていませんが、いつしか立石と根尻岩とを注連縄で結ぶことで常世と俗世とを分かつ結界としました。
門石(鳥居)となった立石は「日の大神」(天照大御神)を拝むための遙拝所(ようはいじょ)としての役割も持ち、立石の浜は参宮者が事前に汐水を浴びて穢れをとる垢離場(こりば)となり、1686年(貞享3年)には立石崎に茶屋が設けられることになります。
伊勢参宮の案内書「伊勢参宮名所図会 二見浦」(1797年)には、富士山と太陽が昇る姿を背景に立石と根尻岩との間に注連縄が描かれています。
1830年の文政のお蔭参り(お伊勢参り)では、伊勢に訪れる参宮者が427万余人に達しており、当時の日本の人口の約1/7にもなりました。
歌川国貞の「二見浦曙の図」(1827-1842年)には神々しい日の出と立石、初代歌川広重の「伊勢名所二見ヶ浦の図」(1849年)、二代目歌川広重の「富士三十六景 伊勢二見ヶ浦」(1860年)と「諸国名所百景 伊勢二見ヶ浦」(1859-1861年)の朝焼けの立石はその頃の立石崎の様子も伝えています。
1854年(安政元年)の地震で、興玉神石は海の奥底に隠れてしまいまったく見えなくなったと伝えられていますが、大潮の際には興玉神石がまとっている長さ2mにもなる水草の無垢塩草(むくしおくさ)が海面に現れると言います。
1882年(明治15年)に病気治療や療養を目的とした日本初の海水浴場が立石崎に開設され、1890年(明治23年)には波打ち際の縁台や宿泊施設などが建ち並んでいる様子が「二見浦真景之図」から知ることができます。
「変わらじな 波は越ゆとも 二見潟 妹背の岩の かたき契は」(本居宣長)
明治時代のある時から、高さ二十九尺(約8.8m)の大きい岩の立石を「男岩」、そして高さ十二尺(約3.6m)の小さい岩の根尻岩を「女岩」と呼び、両岩で「夫婦岩」と称されるようになっていきます。
1911年(明治44年)の「皇后陛下伊勢行啓図会」には「立石はまた夫婦岩ともいい」と紹介されているとのことで、大正時代から昭和初期頃までの絵はがきや案内地図などには「二見立石夫婦岩」や「立石(夫婦岩)」、「二見浦夫婦岩(立石)」など両方の名称で記されています。
1918年(大正7年)に襲った台風によって女岩(根尻岩)は根元から折れてしまいました。
男岩(立石)は緑色片岩、女岩(根尻岩)は石英片岩と互いに異なった岩質であり、女岩(根尻岩)は周囲の岩質と類似していないため、どこか異なる地からやってきた大転石ではないかとも考えられています。
台風で折れてしまう前の女岩(根尻岩)は根元が波浪浸食でくびれており、もうその時には手を触れただけでも岩の表面が崩れてしまうほど脆く、被害後は元の状態に復旧させることは非常に困難だと思われていました。
復旧案とその資金にめどがついた2年半後の1921年(大正10年)、鉄製のバンドで女岩(根尻岩)を釣り上げて海底の岩盤と鉄筋でつなぎ、コンクリートで固めたうえに周囲に防波岩を築きました。
こうして、「万代不易」(永遠に変わらないこと)を願った約2カ月にわたる女岩(根尻岩)の復旧作業を終えました。
男岩(立石)も波浪浸食による崩れのため、1968年(昭和43年)にエポキシ樹脂の接着剤を注入し、岩の北側(海側)には割石による補強工事が行われました。
常世の浪が打ち寄せる伊勢国の二見浦。
その美しい景色の中に縁あって隣り合う大小の離れ岩が常世への門石として、日本の神々の歴史と信仰とともに幾世代もの俗世の人々の記憶に刻まれていきました。
晴れた日には朝焼けと海の彼方から現れる清々しい日の光に照らされ、荒れた日には大波と雨風に容赦なく叩かれ、時には冷たい雪で白く染まりながらも千年を遥かに超える歳月が大小の離れ岩に流れました。
そして円熟の境地に達した頃、固く結ばれていた大小の離れ岩はいつしか夫婦になりました。
短い時ながらも夫婦として過ごし、いよいよその最期の時が訪れようとしても、俗世の多くの人々は自然の成り行きとしてただ任せることができませんでした。
俗世の人々のわがままではあるけれど、愛する人との別れのつらさを知っているからこそ、誰もがいつまでも変わらない姿で仲良くずっとそこにいてくれることを願ってしまいます。
写真・文 / ミゾグチ ジュン