謎多き大王、2つの陵墓をぶらりと..
「身の代と 遺す桜は 薄住よ 千代にその名を 栄盛へ止むる」
日本の第26代天皇である「継体天皇(けいたいてんのう)」(在位507?-531?)が埋葬されたと考えられている陵墓(りょうぼ:歴代の皇室関係の墓所)が、大阪府の北部に2つあります。
一つは、大阪府茨木市(いばらきし)にある「太田茶臼山古墳(おおだちゃうすやまこふん)」で、宮内庁による陵名を「三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)」として継体天皇の陵墓であると治定(じじょう:決定すること)されているため関係者以外の立ち入りが一切禁止されており、静謐を持って祀られています。
墳丘長は226m・高さ19.8m・一重の濠の前方後円墳の形状を持ち21番目の規模を誇る古墳であり、5世紀後半に築造されたと考えられています。
1972年と1988年の墳丘外の調査において古墳の周囲2箇所で数個の埴輪(はにわ)が発見されています。
もう一つは、東に1.5kmほど離れた大阪府高槻市(たかつきし)の「今城塚古墳(いましろづかこふん)」です。
古墳が戦国期に城砦として使われたことや江戸時代の絵図に今城陵(いまきのみささぎ)と記されていることから今城塚と名付けられ、墳丘長は190m・高さ12m・二重の濠の前方後円墳の形状を持ち、6世紀前半に築造されたと考えられています。
2001年に、武人・馬・水鳥など60体以上の形象埴輪群や国内最大級の高さ約170cmの家形埴輪、円筒埴輪の列が見つかり大王級の古墳から大量にこれらが発掘されたことで埋葬された人物は強大な権力者であると推定されました。
2002年には、東西約65m・南北約6mの埴輪を並べて祭祀をしたと思われるステージ状の遺構が発見され、その後も特異な配列の円筒埴輪や石室の内部から水を抜く排水機能を持った石積みなどが発見されています。
今城塚古墳は、宮内庁の陵墓指定から外れているため2011年に「今城塚古墳公園」として整備され一般に公開かれたことで誰もが大王級の貴重な墳丘に足を踏み入れることができます。
ステージ状の遺構には200体ほどの復元された埴輪が並び大王の葬送儀礼と推定される祭祀を間近で見ることができ、園内は朝からの散歩やランニングをしたり園児たちの賑やかな遠足の場となっていたりと今城塚古墳が憩いの場として人々の生活にすっかり溶け込んでおり、漂う大王の御霊はこの境遇に戸惑って落ち着けずにいるかもしれません。
出自や即位までの経緯、晩年に至るまで謎に満ちた継体天皇が埋葬されたのは、太田茶臼山古墳か今城塚古墳なのかは未だはっきりはしていません。
継体天皇が亡くなったのは、日本書紀では531年もしくは534年に古事記では527年となっています。
太田茶臼山古墳が5世紀後半、今城塚古墳が6世紀前半の築造されたと推測されていることなどから今城塚古墳が継体天皇の真の陵墓であると言う学説が現在では有力となっています。
いつの日にか、継体天皇の陵墓がどちらなのか真相が明らかになり世間を少なからず賑わすかもしれないので、今のうちに2つの古墳を訪れ、実大のジオラマを備える「今城塚古代歴史館」で当時の卓越した築造技術などの予備知識を得ておくことは、来たる歴史的発見への驚きを大いに割り増せるかもしれません。
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大阪府高槻市のJR高槻駅の近くには、今から約2500年前の弥生時代の環濠集落(かんごうしゅうらく:周囲に堀をめぐらせた集落)の居住跡・大規模な水田跡・木棺墓(もっかんぼ)や土器棺が発見され、居住域・生産域・墓域の3つがそろった「安満遺跡(あまいせき)」が広がっています。
2021年に約22haの「安満遺跡公園」として全面開園し、イベントエリア・レストラン&カフェ・土器や勾玉づくりの体験館・遺跡の展示館などが日々訪れる多くの人を楽しませてくれます。
園の地下には、近年頻発する集中豪雨等の被害を軽減するために2万㎥もの雨水を貯められる大規模プール(25mプールを約55杯分)が備えられており周辺地域を密かに守っています。
縄文人と弥生人が出会い新たな文化が栄えた変革の地でもあった弥生時代の「安満ムラ」と、行き着いた最新の文明様式の安満遺跡公園とが、時以外は何も隔てるものが無く繋がっています。
せっかく同じ地にいるなら、安満遺跡公園で口にするお米と、自然と共生し活きる弥生時代の安満ムラで作るお米、時を超えて共通の話題と旬の食材を持ち合い、流行のキャンプをするように火を囲って語り合ってみたい、そう思いました。
写真・文 / ミゾグチ ジュン