古代の細道を歩きにぶらりと…

「袖にしも 月かかれとは 契りおかず 涙は知るや 宇津の山ごえ」(鴨長明「新古今和歌集」より)
静岡県静岡市と藤枝市の境、平安時代の歌物語である「伊勢物語」によって世に知られるようになった細道と五街道の一つである東海道が通る峠、そして峠の東麓には往来する人々にとっての休憩地だった集落が残る辺り一帯の『宇津ノ谷(うつのや)』。
宇津山(宇都山)の南側に位置する宇津ノ谷峠を越えるための道が二本ありました。
一本は奈良時代から戦国時代にかけて使われ、後世に「蔦の細道(つたのほそみち)」と呼ばれる峠越えの細道であり、もう一本は豊臣秀吉(1536-1598)による1590年(天正18年)の小田原征伐の際に細道の西側に通された新たな峠越えの道で、江戸時代には江戸から京都に至る道として整備された東海道です。
宇津ノ谷峠を越えるどちらの道も急峻なため、往来する人々にとっては難所の峠越えになっていました。

「宇津の山に至りて わが入らむとする道は いと暗う細きに 蔦・楓は茂り もの心細く すゞろなるめを見ることゝ思ふに 修行者会ひたり」(伊勢物語)
奈良時代には郡家(ぐんけ, 地方の役所)を結ぶ伝路として存在していたと言われる宇津ノ谷峠を越える細道は、平安時代初期から中期にかけて成立したと伝わる伊勢物語に登場したことで世に知られることになります。
伊勢物語は、平安時代前期の歌人である在原業平(ありわらのなりひら, 825-880)を思わせる「昔男」という人物の恋愛を中心とした奔放な生き様を、和歌を通して語る作者不詳の歌物語です。
「駿河なる 宇津の山べの うつゝにも 夢にも人に あはぬなりけり」(在原業平「伊勢物語」より)
自分はもう無用な存在だと思い込んだ失意の昔男は、京の都から東国へと旅に出る東下りの道すがら、駿河の国の宇津の山にて、昔男がこれから分け入ろうとする道は薄暗くて細い上に、蔦(つた)や楓が生い茂っているため、なんとなく心細く、思いがけない目に遭いそうだと思っていたところに見知った修行者とばったり出会い、京の都にいる恋しい人への文(手紙)を託します。
そこには「駿河にある宇津の山辺ではないが、“うつ”という名のように、現実(うつつ)でも夢の中でも恋しいあなたに逢わないなぁ。」と詠った歌が添えられています。
平安時代の男性の恋愛観は、自分に思いを寄せる人は「夢の通い路」を通って自分の夢の中に現れると信じられていました。
そのため、夢の中に恋しい人が現れないのは、恋しい相手がもう自分のことを思っておらず、忘れてしまっていることを意味していると言います。
伊勢物語の繊細な恋愛観や悲哀感、そして情景が浮かぶ自然描写が多くの歌人や文人の心を捉えることになり、「うつのやま」は歌枕として和歌や物語などの題材になっていきます。
紫式部(973頃-1014頃)が綴った光源氏の恋愛と生き様を描く「源氏物語」にも、大きな影響を与えていると言われています。
「宇津の山辺の蔦の道 心細くもうち越えて 手越を過ぎてゆけば 北に遠ざかつて 雪白き山あり」(平家物語)
平家一門の栄枯盛衰を描いた「平家物語」には、源頼朝(1147-1199)の要請により鎌倉へと送られる平重衡(1157-1185)が、囚われの身の心情を表すかのように宇津の山辺の蔦の細道を心細く思いながら越える場面があります。
「わが心 うつつともなし 宇津の山 夢路も遠き 都恋ふとて」(阿仏尼「十六夜日記」より)
「蔦楓 時雨れぬひまも 宇津の山 涙に袖の 色ぞこがるる」
阿仏尼(?-1283)が綴った「十六夜日記」では、鎌倉へ向かうために宇津の山越えをする阿仏尼が、同行していた僧である息子の見知った山伏とばったり出会い、天皇と結婚した娘への文を託すという伊勢物語の東下りに通じる場面に偶然にも遭遇したことを驚いています。
「宇都の山を越ゆれば 蔦かへでは茂りて 昔の跡たえず かの業平が す行者にことづてしけむ程も いづくなるらむと見ゆく程に 道のほとりに札を立てたるをみれば 無緣の世すて人あるよしをかけり」(東關紀行)
1223年(貞応2年)の「海道記」や1242年(仁治3年)の「東関紀行」などといった紀行文によっても、その当時の蔦や楓が茂っていた細道の状況が分かります。
鎌倉幕府の事績を記した「吾妻鏡」には、宇都山(宇津山)に山賊が横行し、財宝や装束などが略奪されたと記されています。
さまざまな歌集や軍記物語、日記文学や紀行文によって語られた宇津ノ谷峠を越える細道は、江戸時代には蔦の細道と呼ばれるようになります。
俵屋宗達(1570-1643)と深江芦舟(1699-1757)によってそれぞれの時代に描かれた「蔦の細道図屏風」は、伊勢物語の東下りの一場面を印象的かつ美しく描き表しています。
「京三界まで駈け歩き都合ができぬその金を持っていたのがこなたの因果 欲しくなったが私の因果 因果同士の悪縁が 殺すところも宇都谷峠 しがらむ蔦の細道で 血汐の紅葉血の涙 この引明けが命の終わり 許してくだされ文弥殿」(河竹黙阿弥「蔦紅葉宇都谷峠」より)
十返舎一九(1765-1831)の滑稽本である「東海道中膝栗毛」には、雨が降る蔦の細道を心細くしながら宇津ノ谷峠を越える弥次郎兵衛(弥次郎)と喜多八の姿があり、1856年(安政3年)に初演された歌舞伎狂言の「蔦紅葉宇都谷峠」では、借金の返済に悩む十兵衛が京都へ向かう文弥の持つ百両を奪うために文弥を殺害し、やがて十兵衛は文弥の怨霊に苦しむことになり、殺害の目撃者には現場に落とした煙草入れで揺すられ、次第に自滅への道を歩むこととなる十兵衛、その因果の始まりとなった文弥を殺害する際に蔦の細道で言い放つ名台詞が舞台を盛り上げます。

「都にも いまや衣を うつの山 夕霜はらう 蔦の下道」(藤原定家「新古今和歌集」より)
江戸時代に宇津ノ谷峠を越える東海道が蔦の細道の西側に新たに整備されてからは、次第に蔦の細道は使われることがなくなっていきました。
人が行き交わなくなった蔦の細道はやがて自然に戻っていき、歌や文学の中だけに語られる幻の道となり、地図にさえ記されることがなくなったことで、人々の記憶からもいつしか忘れ去られることになります。
そのことを憂いた儒学者で歌人の羽倉簡堂(1790-1862)は、1830年(文政13年)に峠道の途中に蔦の細道のことを忘れないようにと蘿径記碑(らけいきひ, 蘿=つた 径=小路)を建てました。
昭和40年代に、ほとんど所在がつかめていなかった蔦の細道を約10年の歳月をかけて小学校教諭の春田鐵雄(1911-1993)と有志たちが見つけ整備したことで、300年以上も埋もれていた蔦の細道は復元されハイキングコースとして現代に甦ることになります。
「蔦の細道は、やっぱり岡部側から登るのが本道だな—夏でも冬でも—業平のように—。」(春田鐡雄「蔦の細道物語」より)
木和田川に沿って明治から大正の時代にかけて建設された石積み砂防堰堤を眺めながら「つたの細道公園」の奥の方へ歩いて行くと、蔦の細道の北側の静岡口へと抜ける南側の岡部口にたどり着きます。
辺りに木が茂る中を上流から石を伝って水が流れるごつごつした石の河原があり、その横を登る自然石がただ積まれただけの石の段はとても足場が悪く、何度か足元の石がぐらついて危ない目に遭います。
何とか登り切り、緩やかな上りとなった石畳を進むとみかん畑が現れ、その道沿いの奇妙な大石の近くでいったん休憩してから先へと進み、急峻な山道を登り切ると、在原業平の歌が刻まれた石碑が立つ見晴らしの良い峠の頂に達します。
天気が良い日には頂から富士山が遠くに望め、寒くなる季節には冠雪した白く美しい姿を見ることができます。
そこからは薄暗く木の根が張り出す細道を足を滑らせないようにしばらく下り、沢を横目に進んでいくと、やがて視界が開けて蔦の細道の静岡口が見えてきます。
太陽からの光を遮るほどの森の中を、人が一人通れるほどの細道を奥へ奥へと進み、ときおり歩みを止めて振り返ってみると、背後の深緑の森が迫ってきて飲み込まれてしまいそうな気がして心細くなってきます。
蔦の細道が廃道となる以前は、もっと森が深くて薄暗かったであろう細道で、追い剥ぎなど身に危険が伴う中を見知らぬ人たちが行き来していたと考えると、峠を越えるために鬱蒼とした蔦の細道への一歩を踏み出したならば、現実(うつつ)との境界から外れた何かに遭遇しても仕方のないことかもしれません。

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「其上の方に猫石といふあり 古松六七株の陰に猫の臥したる形に似たる巨巌有り」(東海道名所図会)
蔦の細道の途中には、猫石と呼ばれる奇妙な大石が木の陰に鎮座しています。
おおよそ猫が臥している姿には見えない大石ですが、古代信仰の石で境神が降臨する磐座(いわくら)とも、その昔に老女の姿に化けて人々を脅かしていた老いた山猫が死して石の姿へと変えたものであるとも言われ、老女に化けた山猫は「獨道中五十三驛」の歌舞伎の演目となり、「東海道五十三對」の浮世絵にも描かれています。
日中でも薄暗い峠道を歩く旅人たちにとって、木の陰に臥した猫石を目にしたことで心細くて寂しくなっていたのを一時でも和らげることができたのでしょう。

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「ひと夜ねし かやの松屋の 跡もなし 夢かうつつか 宇津の山ごえ」(吉田兼好)
徳川家康(1542-1616)によって、1601年(慶長6年)に誕生した東海道には53の宿場が設けられ、宇津ノ谷峠を挟んだ20番目の丸子宿(鞠子宿)と21番目の岡部宿の間の間宿(あいのしゅく)として宇津ノ谷峠の東の麓に、街道を往来する人々の休憩地となる宇津ノ谷の集落が生まれました。
現在でも江戸時代の情緒を感じられ、石畳となった街道に沿って軒先を外に差し出す出桁造りの町家が建ち並んでいます。
二階建てへと改築または改修する家には景観を維持するための数々の基準を定めることで、宇津ノ谷集落としての統一感を保っており、一部の町家には「長兵衛金」「伊勢屋」「十一屋」「髪屋」「出店」などの昔の屋号が軒先に掲げられており、集落に住む人々は名前の代わりに屋号で呼んでいると言います。
それらの屋号の一つ「御羽織屋」は、小田原征伐に向かう豊臣秀吉が立ち寄った町家の当主がその戦勝を祈願し、後に勝利し全国統一を成した豊臣秀吉から陣羽織を与えられたことで屋号を御羽織屋としました。
その10年後に鷹狩りで訪れた徳川家康が陣羽織を見物した時には呉須の茶碗が贈られ、参勤交代で街道を通る諸国の大名が立ち寄り見物し、徳川慶喜(1837-1913)からは「蔦乃細道」の銘が入った茶碗が贈られています。

「安倍川を西に越えると、右のほうにえんえんたる帯のような、山つづきが眺められる。箱根から西で名の高い、宇津谷峠というのはこれだ。山のいきおいは流れて、高草山となり、ものすごく海にせまっている。」(林不忘「丹下左膳」より)
蔦の細道は道幅が狭くて大軍の進軍には向かないため、豊臣秀吉の小田原征伐へ向かう数万人規模の進軍の際には、西に1kmほど離れた地に新たに峠道を整備して進みました。
古くは1560年(永禄3年)に、今川義元(1519-1560)が西方の尾張国を目指して進軍した際に使った峠越えの道だと言います。
また、織田信長(1534-1582)も1582年(天正10年)に武田勝頼(1546-1582)を討った後に、安土城へ戻るために宇津ノ谷峠の蔦の細道を通ったと「信長記(甫庵本)」には記していますが、どちらの峠道を使ったのかはっきりと分かっていません。
その後の1601年(慶長6年)には、新たな峠越えの道が蔦の細道に代わって五街道の一つ東海道として整備され、人の往来や物の運搬に長年にわたって使われることになります。
それから400年以上を経た現代でも変わることなく、東側の丸子宿から東海道を通って西側の岡部宿へ向かうためには、宇津ノ谷の集落を抜けて宇津ノ谷峠へ向かいます。
しばらくは街道に従って上り道を歩くと、木々の間から眼下に集落を見下ろせる昔から変わらない場所があり、これから峠を越える人にとって、ここから集落を見ることで気持ちをぐっと引き締めたことでしょう。
また、峠を越えてきた人にとっては、集落が見えたことで無事に越えられたとほっとしたことでしょう。

蔦の細道に比べて道幅の広い東海道をゆうゆうと歩いて行くと、唐突に石が積まれた石垣が現れます。
江戸時代中期に往来の安全と道しるべとして新たな地蔵堂を建てるために、宇津ノ谷峠の傾斜地に石を積み土地を平らにするために、この石垣が築かれたと言います。
現在、高さ約6.4m・最大幅約12mの二段構えの石垣の上には約2m四方と約5m四方の二つの地蔵堂の痕跡を残すのみですが、江戸時代前期に描かれた「東海道図屏風」には地蔵を祀る祠(ほこら)の姿、1806年(文化3年)に幕府が東海道の状況を把握するために描かせた「東海道分間延絵図」には石垣と地蔵堂の姿を見て取れます。
1909年(明治42年)に、地蔵堂にあった弘法大師作といわれる延命地蔵尊は宇津ノ谷の集落にある慶龍寺に移されています。
歌舞伎の演目である蔦紅葉宇都谷峠で文弥が十兵衛に殺された真の現場は蔦の細道ではなく、東海道のこの峠の地蔵堂の前だと言われています。

歌川広重(1797-1858)が描き、1833年(天保4年)頃に出版された「東海道五拾三次(保永堂版)」の内の21番目の浮世絵には、岡部(宇津之山)として左右の山に挟まれた岡部川に沿って伸びる宇津ノ谷峠を丸子宿へと歩いている菅笠をかぶる旅人の背中、そして岡部宿へと束ねた柴を運ぶ正面を向いた人の奥には宇津ノ谷の集落と思われる家屋が見えています。
標高約210m・勾配約24度の蔦の細道に比べて、東海道で宇津ノ谷峠を越えると標高約162m・勾配約15度であり、東海道の道幅は3.6m(二間)ほどあったそうなので、実際に二つの峠道を歩いてみるとその違いがよく分かります。
東海道として400年以上の経過があるにもかかわらず、未だ街道としての面影を色濃く感じられ、この峠道を歩いていると、やがて向こう側から菅笠をかぶり草鞋を履いてすたすたと歩いてくる旅人に出くわすのではないかと期待を抱かせてくれます。

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「静岡縣管下駿河國志太郡宇都谷山道ノ儀宇都谷村ヨリ岡部宿地内字坂下ニ至ル迄隧道落成候ニ付自今右隧道ヲ以テ本道ト相定候條此旨布告候事」(京都府布令書明治九年十一月第四百九十二號)
1876年(明治9年)、宇津ノ谷峠に日本初となる有料トンネルの「宇津ノ谷隧道(うつのやずいどう)」が開通します。
明治政府は1871年(明治4年)の太政官布告で、自費あるいは会社を組織して運搬に関わる道や橋などを建設し、年限を定めて通行賃を徴収できることを認めて奨励しました。
それにより、駿河の政治家で実業家の宮崎総五(1828-1909)が工費として八千二百五十円の私財を投じ、江戸時代には川越人足の手を借りて渡っていた安倍川(あべかわ)に、全長約509mの木製の安水橋(あんすいばし)を1874年(明治7年)に架け、一人 四厘・馬車 四銭五厘の通行賃(橋銭)を徴収しました。
安水橋が架かったことで東海道を使った物流が活発になり、峠越えの難所である宇津ノ谷峠における物流の停滞を回避するために宮崎総五の呼びかけに応じた丸子宿と岡部宿の有力者を含めた7人が結社を立ち上げました。
1874年(明治7年)から宇津ノ谷峠の真下の標高約115mに隧道(ずいどう, トンネル)を掘る事業が始まります。
安倍川に安水橋が架かったことによって失業した川越人足を雇い入れた延べ15万人が従事し、鑽(たがね, 採掘用のノミ)を槌(つち, ハンマー)で打って掘り進める手掘りで、丸子宿側と岡部宿側の山の双方から別々に掘削作業が行われました。
着工から約2年の歳月と二万四千八百十七円九十六銭の工費をかけた宇津ノ谷隧道が1876年(明治9年)に完成し、一人 六厘・荷馬 一銭二厘・人力車と籠 一銭五厘の通行賃(道銭)を徴収しました。
その当時は、おおよそ蕎麦一杯が八厘・米一升が五銭四厘・あんぱんが五厘・入浴料金が一銭五厘・新聞定期購読料が七十銭で、士族(旧武士階級)出身者で占められていた巡査の給与が五円(=五百銭, =五千厘)でした。
通行賃を徴収することは、宮崎総五ら7人が工費の大部分を出資したこともあって、今後50年にわたって認められました。
完成した全長約223mの宇津ノ谷隧道には両側の地盤に違いがあったため、地盤の悪い丸子宿側の坑口(出入口)は青みを帯びた凝灰岩の青石を弓状に積み上げた石造りが内部へ20mほど続き、地盤の比較的良い岡部宿側の坑口は隧道の内部にかけて材木を組んで覆う合掌枠になっていました。
また、本当の理由は定かではありませんが、予算の問題か測量技術の未熟さからか入り口から出口まで真っすぐに通っておらず、掘削した双方からの接続地点で「く」の字に折れ曲がり高低差もあったため、隧道の内部は人の顔が分からないほど暗く、両坑口に反射鏡八面を掲げ日光を反射させて隧道内を照らし、さらに明かり取りのためにおよそ50個のカンテラ(玻璃角灯)が左右に吊るされていたと言います。
宇津ノ谷峠に宇津ノ谷隧道が開通したことで往来する人々にとって峠を越えるのが楽になりましたが、有料であったため宇津ノ谷峠の東海道を通る人はまだ多かったと言われています。
三代目歌川広重(1842-1894)が1875年(明治8年)に出版した「東海名所改正道中記」には、まだ隧道の開通前でしたが1870年(明治3年)に発明され急速に普及した人力車が宇津ノ谷隧道を通ろうとしている様子が描かれています。
1878年(明治11年)には、二カ月余りの北陸東海御巡幸の際に明治天皇(1852-1912)が隧道を通り抜けられています。
1899年(明治32年)に宇津ノ谷隧道内でカンテラを原因とした火災が発生し、内部に組まれた材木が燃えて崩落したことで閉鎖され通行できなくなったため、再び宇津ノ谷峠の東海道が使われるようになります。
1903年(明治36年)に、静岡県によって耐火性のあるレンガ(煉瓦)で隧道の内側すべてを覆う修復が始まり、その際には「く」の字に曲がっていた道も真っすぐに改められました。
そして、1904年(明治37年)に装いを新たに生まれ変わった全長約203mの宇津ノ谷隧道が開通しました。

宇津ノ谷隧道は、1996年(平成8年)から翌年にかけて補強などの改修が行われ、1997年(平成9年)に「明治宇津ノ谷隧道」として国の登録有形文化財に登録されました。
現在は遊歩道となり自由に往来できる宇津ノ谷隧道は、明治のトンネルとも呼ばれています。
明治のトンネルの内壁は無数のレンガに埋め尽くされ、カンテラ風の照明に当てられたレンガ一つ一つに陰影が生まれ、所々から滴る水の影響なのか魚鱗のようにキラキラと輝いて見えます。
白華現象によって赤から白くなった部分が目につくアーチ部のレンガ(赤煉瓦)は長手積みで、側壁部の赤黒く耐火性の高いレンガ(焼過煉瓦)はイギリス積みになっているのが100年以上たった今でもよく分かります。
平成時代の改修工事には、ロックボルト工(鉄筋挿入工)による地山への固定や、壁裏の空隙を埋めるために比重が小さくレンガへの負担が少ない発泡ウレタンを採用した裏込め注入などの補強が行われていますが、美観を損なわないようにその痕跡を目立たなくする工夫が施されています。
明治のトンネルである宇津ノ谷隧道へ踏み込むと、ひやりとした空気でも何故かあたたかな生命を感じて奥へ奥へと誘われてしまい、もしかしたらトンネルを抜けると遙か昔に峠を騒がせた鬼が住むという谷に出てしまうのではないかと妄想してしまいます。

1889年(明治22年)に静岡から浜松までが結ばれ、同年に新橋から神戸までを約20時間で結んだ東海道線が開通したことによって、鉄道による人と物の大量輸送が可能になりました。
1898年(明治31年)にはフランス人によって日本にガソリン自動車が初めて持ち込まれたと言われ、1901年(明治34年)に横浜で自動車販売店が開業し、1903年(明治36年)に京都で乗合自動車の運行が始まり、1907年(明治40年)に国産初のガソリン自動車が製作されました。
1909年(明治42年)頃には都市部で自動車が走る光景が見られ、1916年(大正5年)頃から貨物自動車が発達して交通運輸の中心になっていきました。
宇津ノ谷においても物流の輸送が活発になるにつれて、火災による修復で道幅が約5.4mから約3.9mとなった狭い宇津ノ谷隧道では大型車両でのすれ違いができなくなってきたため、標高107mの地点に全面コンクリートで全長約227m・道幅約7.3mのかまぼこ型の新たな「宇津ノ谷隧道(昭和第一トンネル)」が1926年(大正15年)に着工し、1930年(昭和5年)に開通しました。
その際に、明治時代の宇津ノ谷隧道は廃道となりますが、1954年(昭和29年)の台風によって新たな隧道の坑口が土砂により崩壊したことで、復旧までの期間は明治時代の宇津ノ谷隧道が再び使われました。
それ以降も明治時代の宇津ノ谷隧道は再び廃道とはならず、災害時の備えとして維持されることになりました。
太平洋戦争後の1955年(昭和30年)以降の高度成長期を経て、標高70mの地点に全長約844m・道幅約9mの「新宇津ノ谷隧道(昭和第二トンネル)」が1959年(昭和34年)に開通しました。
その後も交通渋滞の緩和のために、平行する形で全長約881m・道幅約11.5mの「平成宇津ノ谷トンネル」が、新宇津ノ谷隧道を上り専用に改修した上で、下り専用として1998年(平成10年)に開通しました。
時の移り変わりに応じて、宇津ノ谷には着工時期が明治・大正・昭和・平成と時代がそれぞれ異なった四本のトンネルが通ることになり、いつしか役割を終えてしまっていた宇津ノ谷峠の東海道は、かつての蔦の細道と同様にその道の所在を人々は記憶の中から忘れ去ってしまいました。
蔦の細道と時を同じくして、宇津ノ谷峠の東海道が見つかり案内板を立てるなどの整備がされたのも昭和40年代のことです。
東海道は長い年月の間に背丈ほどあるススキなどの茅に覆われて人が足を踏み入れられないありさまで、一部の道は1910年(明治43年)の大雨により崩落していたものの、当時の街道としての名残を強く留める道として復元され、今では自由に歩けるようになっています。
現在の宇津ノ谷には、二本の道と四本のトンネルを合わせた六本の道が通っています。
奈良時代から伊勢物語を経て現代までの日本人の感性、記憶と忘却、そして日本の歴史のほんの一部分を宇津ノ谷の六本の道を通って実感してみることで、千年を超えるその歩みをうかがい知ることができるかもしれません。

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「住僧某寵愛の児あり 此児同宿の児が生血を好み吸ふ事屡なり 終に鬼童に変じ 寺中の僧俗これ為に喰殺されて寺院退転す 又此鬼童近郷に災をなして里人を悩せり」(駿河記「谷川山梅林院」より)
今は昔、宇津ノ谷峠には人喰い鬼がいたと言います。
難病に罹った梅林院の住職が、寺の小僧に血膿を吸わせて痛みを和らげていました。
やがて血の味を覚えた小僧は鬼となって、峠道を通る旅人を襲うようになります。
困った村人たちが地蔵菩薩に祈ると、地蔵菩薩は旅の僧へと姿を変えて峠に向かい、鬼と出会います。
問答の末、旅の僧となった地蔵菩薩の機知により手のひらの上で小さな団子となった鬼は、杖で打たれたことで団子は砕かれ十の小さな粒となり、地蔵菩薩はその十の粒を飲み込んでしまいました。
以後、峠に鬼は出なくなったと「東海道宇津之谷峠地蔵大菩薩畧縁起」に伝わっています。
「十団子を以て我前にそなへ 信心堅固にして是を喰ひ これを所持せば 道中安全 諸事意のごとくならしめむ」(畧縁起)
鬼の祟りを心配した村人が十粒の小さな団子をつくり供養します。
地蔵菩薩の夢のお告げから、子供に食べさせると万病が癒え、道中の安全を守り、願い事もうまく進む縁起物として宇津ノ谷の名物になっていったと言われています。
「折節夕立して宇の山に雨やとり 此茶屋むかしよりの名物十たんこと云 一杓子に十つゝ かならすめらうなとにすくはせ興して」(宗長「宗長手記」より)
「坂のあがり口に 茅屋四五十家あり 家ごとに 十団子をうる 其大さ 赤小豆バかりにして 麻の緒につなぎ いにしヘハ 十粒を一連にしける故に 十団子といふならし」(浅井了意「東海道名所記」より)
室町時代には女性たちが一回の杓(しゃく)で常に十の団子をすくって売っており、江戸時代には十粒の小豆ほどの団子を細糸でつないで一連にして家ごとで売っていたと言われています。
歌川広重が描いた「東海道五拾三次(行書版)」の内の21番目の岡部(宇津の山之図)では、峠の茶屋に「名物十ヲだん子」の看板と食べる用の串に刺した団子と吊るされた十団子を見て取れます。
1863年(文久3年)の第14代将軍徳川家茂(1846-1866)の上洛を歌川貞秀(1807-1878?)が描いた「東海道名所風景」の内の東海道名所(宇津谷峠)では、店先にたくさんの十団子が吊るされている前を将軍の行列が進んでいる様子を見て取れます。
「有名な宇津の山の十団子は、小さな堅いのが糸に通してあるのだ。これは堅くて食べられなかった。」(内藤鳴雪「鳴雪自叙伝」より)
室町時代には十団子を食べていたようですが、江戸時代以降には杓ですくって売る姿が見られなくなり、厄除けとしての細糸が通された十団子の方が名物となっていったようで、その十団子が実際に食べられていたのかはよく分かっていないと言います。
「するがなる うつの山辺の たうだんこ 銭かなければ 買はぬなり けり」(仁勢物語)
「古茶にいざや 宇津の山辺の 十團子」(菊舎)
宇津ノ谷の集落にある延命地蔵尊を祀る慶龍寺の毎年八月の縁日で売られる現在の十団子は、十粒の小さな団子を細糸の三カ所で数珠つなぎにした三十粒を一連に、それを三連束ねて九十粒の房状にして乾燥させたもので、食べるものではなく家の軒先などに厄除けのお守りとして十団子を吊るします。
毎年、宇津ノ谷の集落の女性たちが米粉から一粒一粒作る十団子は、とても手間のかかる細かい作業のようです。
九十粒で一房の十団子は九十苦難を表し、苦渋苦難(九十九苦難)のうちの九十の難は守るが、残りの十の難は自らが乗り越えよとの教えから来ていると言います。
「降りしきる 雨やあられの 十だんご ころげて腰を うつの山みち」(十返舎一九「東海道中膝栗毛」より)
雨が降って薄暗い蔦の細道を心細く杖にすがりながら歩いていた弥次郎と喜多八は、名物の十団子を売る茶屋に差し掛かったところで弥次郎がすべって坂を転げてしまい、十団子を買うことを諦めて先を急いでしまいます。
この時に弥次郎が転ばず無事に喜多八と茶屋で十団子を手にして、食べてみて美味しかったとか堅くて食べられなかったとか、食べるものではなくて旅のお守りだったとかを面白おかしく二人で語ってくれていたら良かったのになぁと考えてしまいます。
写真・文 / ミゾグチ ジュン

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