写真旅・山口県へ
★金子みすゞ記念館(長門市)
「私の髪の光るのは、いつも母さま、撫でるから。」(「私の髪の」より)
童謡詩人『金子みすゞ』(1903-1930)は、生涯で512編の詩を綴りました。
自然を見つめ、優しさにあふれ、心に染み入る世界感を持つ詩。
しかし、その内容とは裏腹に自身の悲しみと寂しさが込められています。
文学に理解のない夫からのさまざまな仕打ち、そして詩の投稿と仲間との文通禁止。
1930年2月に離婚しますが、夫が娘の親権を強硬に要求したことで、3月10日に娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を残して、『金子みすゞ』(本名:テル、照子)は26才で自らの命を絶ちます。
「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがつて、みんないい。」(「私と小鳥と鈴と」より)
記念館(入館料:350円)は、『金子みすゞ』が20才まで過ごした書店『金子文英堂』を復元しています。
店内に一歩入ると、『金子みすゞ』が過ごしたその時代の書籍と文具が展示物として並んでいます。
2階に上がると『金子みすゞ』が詩を綴った通りに面した部屋があり、よくここ窓から通りを眺めていたようです。
『金子文英堂』の奥に建てられた近代的な本館には、遺稿や着物の切れ端などのギャラリーになっており、詩の世界観を体感して『金子みすゞ』の短い生涯、そして写真に残る『金子みすゞ』が着ていた着物の色を知ることができます。
ペンネームの『みすゞ』は、「信濃の国」にかかる枕詞「みすゞかる…」からとったとのことです。
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★松下村塾(萩市)
「親思うこころにまさる親ごころ 今日の音づれ何と聞くらん」(吉田松陰)
幕末の尊王論者で思想家『吉田松陰』(1830-1859)は、30才で斬首刑に処せられます。
『松下村塾』は、1842年に『吉田松陰』の叔父『玉木文之進』が自宅で私塾を開いたのが始まりで、1857年から『吉田松陰』が主宰しました。
「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。」(「松下村塾記」より)
身分や階級にとらわれず塾生を受け入れ、久坂玄瑞・伊藤博文・高杉晋作など幕末から明治維新、明治政府で活躍した人材を育てました。
そんな木造瓦葺き平屋建ての『松下村塾』は、「松蔭神社」内の当時から変わらない場所に現存しています。
ちなみに、『松下村塾』を手伝っていた『吉田松陰』の妹『杉 文(すぎ ふみ)』(1843-1921)は「久坂玄瑞」(1840-1864)に嫁いでいます。
そして、2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公となりました。現在では、明治維新150年の新マスコット「文(ふみ)にゃん」として誕生し、萩のマスコット「萩にゃん」と共に萩の町を盛り上げています。
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★伊藤博文旧宅・別邸(萩市)
「利助亦進む。中々周旋家になりさうな。」(吉田松陰 談)
「大日本帝国憲法」の起草の中心となり初代内閣総理大臣となった『伊藤博文(幼名:利助)』(1841-1909)が、1868年に兵庫県知事に赴任するまで住んでいた茅葺きの平屋建ての『伊藤博文旧宅』と、1907年に東京に建てた別邸を萩に一部移築し2001年に一般公開された『伊藤博文別邸』。
『伊藤博文別邸』内には、奈良県・吉野山で発見された樹齢1000年の「吉野杉」を無節無傷の一枚板として天井に使った「鏡天井」があります。
元は、タテ1088cm・ヨコ202cm・厚さ3cmの大きさでしたが、移築の際にトラックに積めないため残念ながら切断されて、見えている部分で幅145cm・長さ366cmとなってしまいました。
また、別の部屋の「木の節」を巧みに配した「節天井」も洒落ていて見応えあります。
それ以外にも、藍場川の水を屋敷に引き込み日本庭園の池や台所・風呂場で利用できるようにした「旧湯川家屋敷」、51.5m級の長屋「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」、「木戸孝允旧宅」、指月山を背に石垣だけが残る「萩城」、産業革命遺産「萩反射炉」、萩藩の藩校「明倫館」の跡に建つ観光起点「明倫学舎」など、萩には多くの歴史的見所があります。
5月は夏みかんの花の香りに包まれる古い街道を歩くと萩に訪れた印象をより深くしてくれます。
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★中原中也記念館(山口市)
「陽気で、坦々として、而も己を売らないことをと、わが魂の願ふことであつた!」(詩集「山羊の歌」より)
詩人『中原中也』(1907-1937)は、生涯で350編以上の詩を綴りました。
1934年に出版した詩集「山羊の歌」が認められ、多くの雑誌に詩を発表しました。
「蒼白い月の光のその中で一寸接唇するのです……」(訳詩集「ランボオ詩集」より)
フランス詩の翻訳も手がけ、1937年には「アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud)」(1854-1891)の訳詩集「ランボオ詩集」を刊行しています。
ところで、「アルチュール・ランボー」の破滅的な愛を映像化した作品「太陽と月に背いて(1995)」(英題 Total Eclipse)は、現代においてもとても興味深い内容です。
「汚れつちまつた悲しみに なすところもなく日は暮れる……」(詩集「在りし日の歌」より)
「ランボオ詩集」が好評の中、詩集「在りし日の歌」の清書を終えたあたりから体調を崩し、「結核性脳膜炎」を発症した『中原中也』は、1937年10月22日に30才で世を去りました。
遺作となった詩集「在りし日の歌」は、友人たちの尽力で翌年4月に刊行されました。
中原中也記念館(入館料:320円)は、1972年に焼失した生家跡に建てられています。
記念館入り口には、焼失を免れたヒノキ科の「カイヅカイブキ」が植わっており、『中原中也』の短くも波瀾万丈な人生を表現しているような複雑怪奇な姿で佇んでいます。
館内には、友人に当てた手紙や数多くの詩を展示物と関連しながら時代と共に見ることができます。
写真・文 / ミゾグチ ジュン