能登半島の先端・珠洲市へ ニュー

「珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり」(大伴家持)
石川県北東部、日本海に突き出た能登半島の先端に位置し、奥能登の四市町の一つで、三方を海に囲まれた『珠洲市(すずし)』。
珠洲市には、能登半島の最先端にある禄剛崎(ろっこうさき)を境にして、北側の日本海に面し荒々しく岩石が露出した岩礁海岸である外浦(そとうら)と、東南側の富山湾に面し穏やかでなだらかな砂浜海岸である内浦(うちうら)があり、外浦の冬は季節風が吹きつけ、波が荒く雪が降り、内浦は年間を通して温和な気候であるという対照的な特徴を持っています。

「珠洲は能登國建置以前に在りて既に越前國の一郡たり郡名の起因に就ては或は曰く『延喜式』本郡に須須神社あり郡名之に本づくと或は曰く須須神社の祭神甞て御鈴を降して以て此地に鎭す乃ち神璽の神鈴なるに因みて珠洲の名ありと或は曰く古より岬角の名を須々といふ郡名之に因ると或は曰く海底に珠貝を產す是れ珠洲の名を得たる所以なり」(和田尚軒 編「能登珠洲志」)
珠洲の名は、718年(養老2年)に越前国から分割されて能登国が建国される以前からあったと言い、その由来は崇神天皇(前148-前30)の時代に創建された須須神社(すずじんじゃ)の名からとも、祭神の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨した際に鈴(須須)を使って鎮めたことからとも、古来から岬のことを須須と呼んでいたことからとも、海底の鮑(あわび)から明珠(光り輝く玉)が採れる洲(くに)からなどといった諸説があり、アイヌの言葉で岬を意味するスツやシュツが転訛してスズとなったとも言われています。
「白玉の 五百つ集ひを 手に結び おこせむ海人は むがしくもあるか」(大伴家持)
能登国が、奈良時代の741年(天平13年)に越中国へ一時的に併合されていた折、746年(天平18年)に越中国に赴任した大伴家持(718?-785)は、国守として農民に利息を付けて種籾などを貸し付ける出挙(すいこ)の務めを果たすために、748年(天平20年)の春に一カ月をかけた能登への巡見に出ました。
越中国府(富山県高岡市)から之乎路(しおじ)を通って能登に入り、羽咋(はくい)の海へと向かい、邑知平野(おうちへいや)を通って香島津(かしまづ)へ、そして船を使って渡った先の熊来(くまき)から饒石河(にぎしかわ, 仁岸川)をまわって、巡見の終着地となる珠洲に到着します。
大伴家持は、後に現存する日本最古の歌集である萬葉集の編纂に携わり、収録される4,500首余りのうち473首もの歌を収めることになる萬葉歌人でもあり、能登の巡見の際には5首の歌を詠んでいます。
珠洲を訪れた大伴家持は、珠洲の漁師(海人)が遠くの沖つ御神に渡って潜り採るという鮑の真珠(白玉)のことを聞き、都で寂しくしている妻を慰めるために500個くらいすくって寄こしてくれる漁師がいたら嬉しいなと能登の巡見の後に詠っており、実際に大伴家持が眺めた珠洲の景色を知ることはできないですが、柔らかな青空、どこまでも広がる紺碧の海、波が寄せる白い砂浜や近寄りがたい岩礁、漁をする船には捕れた鮑の姿、そのような珠洲の日常だったであろう情景を思い描いてしまいます。

「見附島は鵜飼の海中に在り加志波良比古神の舊蹟と稱す曰く見附島は神が海上に在りて初めて發見せられたるものにして其上陸の地を着崎と稱し宮居の地を御假殿と唱ふと御假殿は榲原に在り。」(和田尚軒 編「能登珠洲志」)
珠洲市の南方内浦にある鵜飼海岸(着崎海岸, 見附海岸)から沖へ南東180mほど離れた地に、頭上に緑を冠した灰白色の高さ約28mの島である「見附島(みつけじま)」が海中からそびえています。
平安時代初期の僧である空海(774-835)は、804年(延暦23年)に遣唐使として唐の国に渡り、真言密教の伝持の第七祖である恵果(746-805)のもとで学び、第八祖として一子相伝の密教の奥義を授けられました。
806年(元和元年)に日本への帰国を決めた空海は、密教を広めるのに相応しい地を示すよう祈願し、煩悩を打ち砕く密教の法具である金剛杵(こんごうしょ)の三種である三杵(独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵)を東の空に向けて投げました。
これとは異なり、嫉妬した僧たちが空海が手にした三杵を奪い返そうとし、海岸まで追い詰められたことで空海が三杵に密教有縁の地で我を待つようにと祈願して東の空に投げたとも言います。
日本に戻った空海が、佐渡の小比叡山(こびえいざん)の柳の樹に独鈷杵(とっこしょ)を、高野山の松の樹に三鈷杵(さんこしょ)を見つけました。
そして五鈷杵(ごこしょ)は、佐渡から能登沖を通ったときに波の音とともに法華経を唱える声がどこからか聞こえて引き寄せられ、渡った島の桜の樹で見つけることができました。
三杵のうちの五鈷杵を見つけた島、もしくはこの地を訪れた空海が最初に発見した(目に附いた)島であることから、見附島(見付島)と呼ぶようになったと言います。
また別の説では、土地の神と思われる加志波良比古神が降臨し、海上にあって初めて発見した(目に附いた)島であることからとも言われています。
「鵜飼ノ東南ニ見付島アリ、蒼松林ヲ成シ、頗景致アリ」(三宅少太郎 編「能登地誌略」)
見附島の頂上部にはタブノキ(椨の木)やヤブツバキ(藪椿)などの照葉樹を優占に、クロマツ(黒松)やナラ(楢)などが自生して茂り、島を構成する岩質は約1300万年から約650万年前の中新世後期に堆積したと考えられる珪藻質泥岩から成っています。
珪藻質泥岩(珪藻土)は、葉緑体を持ち光合成を行う植物プランクトンの一種である珪藻(けいそう)が死んで珪酸質(ガラス質)の殻が海底に堆積して化石となり、他の微生物の化石や粘土鉱物などが混ざり合った泥岩であり、多孔質で固結度の低いため指で容易につぶせるほど脆いですが、比重が低く成形しやすく、温度や湿度の変化に対して安定していることから、耐火断熱のレンガなどの建材の原料に利用されています。
能登半島の一帯から豊富な量の珪藻質泥岩が産出しますが、特に珠洲市の珪藻質泥岩は粘土鉱物を多く含む軟岩状のため成形がよりしやすく、地中から珪藻質泥岩を塊として切り出して、炭を燃料とする土製の焜炉(こんろ)である七輪(しちりん)の形に削り上げ、一昼夜かけて窯焼きされる「切り出し七輪」は、江戸時代から続く伝統的な工法で作られていると言います。
そのような特性を持つ珪藻泥岩から成っている見附島は、明治時代には大島(見附島)と小島が並ぶ頭上に緑を冠した二島の姿が望めたようですが、時の流れとともに波の浸食と風化によって二島は少しずつ削れていったことで見附島は独特な外観を持つようになり、しだいに軍艦の船首に見えることから軍艦島と呼ばれるようにもなりました。
見附島と小島の二島の景観を守ろうと、浸食を防ぐために島の周囲に捨て石を配置して打ち寄せる波を穏やかにし海底を固める試みがされましたが、1993年(平成5年)のM6.6の能登半島沖地震では震源に近い珠洲市に被害が集中したことで見附島の一部が崩落し、すでに小岩となっていた小島は2019年(令和元年)の台風による波風によってついに崩れて消失しました。
2020年(令和2年)以降の能登群発地震で見附島の一部がたびたび崩落し、2024年(令和6年)に発生したM7.6の能登半島地震で土煙をあげて見附島は大きく崩落し、多くの人が長く慣れ親しんだ姿がすっかり変わってしまいました。
2025年(令和7年)にはカラス(烏)やウミウ(海鵜)、サギ(鷺)の生育地となっていた見附島の頂上部の樹木が枯れて白くなっている様子が見られ、崩壊後の植生の変化と鳥たちのフンが影響していると考えられるが、自然の成り行きを見守るしかないと言います。
空海が見つけた当時はもっとずっと大きな島だったのだろうか。
それから1200年以上を経る現代までに抗えない自然の力によって少しずつ姿を変えていき、いつしか人々を引きつける趣を醸し出すようになり、度重なる地震にも何としても耐えた見附島の美しくも勇壮な姿は、たとえ以前と異なり悲しさが入り混じっても珠洲市を代表する景勝地として、これからも地元の人々や訪れる人々の心底に深く刻まれるように思います。

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「蛸島境に鉢ヶ崎とてあり。不思議の塚也。是は泰澄大師の鉢の子を納し塚也。依て鉢ケ崎といへり。」(太田頼資「能登名跡志」)
青い海に白い砂浜、そして緑の松林、珠洲市の内浦には美しい渚の条件をそろえる「鉢ヶ崎海岸(はちがさきかいがん)」があり、夏には海水浴場として賑わい、付近にはオートキャンプ場や野営場、宿泊施設などが整ったリゾート地となっています。
しかしながら、現在は2024年(令和6年)の能登半島地震による被害を受けたことで、宿泊施設は臨時休業または復旧復興支援の関係者限定、キャンプ場は被災された方々の仮設住宅地となり、以前の賑わいに戻るにはまだまだ時間が必要です。
リゾート地として開発される以前の鉢ヶ崎海岸は、海岸砂丘が広がる不毛地帯だったと言います。
鉢ヶ崎の名は、蛸島(たこじま)村にあった岬に越前国の霊峰である白山を開山した越大徳(こしのだいとこ)と称された僧の泰澄(たいちょう, 682-767)が能登を訪れ、祠に托鉢(たくはつ)に使う鉢の子(鉄の鉢)を納めたことが由来だと伝わっており、明治時代以降に村を挙げての植林を進めたことで見違えるような景観に生まれ変わり、奥能登随一の人々が集う場へとつながっていきました。
夏のある日、今はまだ人が訪れる気配のない砂浜では、寄せる波で時が動いていることを知れるくらい静かな景色が広がっており、風雨で多少は荒れても、このままずっと穏やかな景色であってほしいと願ってしまいます。
「岬角を成し其尖端は所謂珠洲岬にして更に長手崎·高波崎·塩津崎·金剛崎·祿剛崎等を作して…」(和田尚軒 編「能登珠洲志」)
鉢ヶ崎海岸から内浦の海岸に沿った道を北に向かっていくと、海沿いに集まる民家の外れで、海中に建てられた塔高17m・灯高16mの「長手埼灯台」(航路標識番号:1203)を目にすることができます。
能登半島の最東端にあたる長手埼灯台は、1961年(昭和36年)に初点灯した白塔形のコンクリート造の灯台で、青い海と空に挟まれて映える白く細身の可愛らしい姿を、堤防に腰掛けてしばらく眺めていたくなります。

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「造天下大神命娶高志國坐神意支都久辰為命子俾都久辰為命子奴奈冝置波比賣命而令産神御穗須々美命是神坐矣故美保」(出雲國風土記)
約2000年前の崇神天皇の時代に能登半島の北東端の標高172mの山伏山(鈴ヶ嶽)の頂上に創建された「須須神社(すずじんじゃ)」ですが、天平勝宝年間(749-757)に現在の内浦の海沿いの地に遷座しました。
祭神として天津日高彦穂瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)と美穂須須美命(みほすすみのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る須須神社は、三崎権現または須須大明神とも呼ばれて尊崇され、東北鬼門日本海の守護神として信仰されています。
また、瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命は夫婦ということもあり、縁結びまた子孫繁栄を結ぶ神社としても知られています。
鳥居をくぐった一歩先の社叢は、スダジイ(すだ椎)を主にした照葉樹などに覆われた神域で、木の葉から漏れた日の光が細い参道をきらきらと照らす夢とも幻とも思える様相は、さっきまでいた世界とは異なった地へと入り込んだかのように感じます。
「此御笛ヲ給テ吹ケルガ スキ聲ノシケルヲアタヽメントテ 普通様ニ思ツヽ 膝ノ下ニ推カイテ 又取上吹ントシテケル 笛咎メヤ思ケシ 取ハヅシテ落シテ 蝉ヲ打折ケリ 其ヨリシテ 此笛ヲ 蝉折トゾ名ケル」(源平盛衰記〔蝉折笛事〕)
須須神社の宝物殿には、鎌倉時代後期に制作された5躯の木造の男神像や平安時代後期に記された古文書などと、源義経が愛用した笛の「蝉折」と武蔵坊弁慶の「左」の銘が彫られた守刀が所蔵されています。
蝉折の笛のいわれは、鳥羽天皇(1103-1156)の御代に宋の国から贈られた生きた蝉のような節が付いた笛竹を七日間の祈祷をした後に笛にし、笛の名手だった藤原実衡(1100-1142)が吹いた際に普通の笛と同様にうっかり膝より下に置いてしまったところ、それを笛が咎めたのか蝉の節のところで折れてしまったことから、この笛は蝉折と名付けられることになったと言います。
蝉折の笛は源頼政(1104-1180)から高倉天皇(1161-1181)へ、そして源義経(1159-1189)の手に渡ったと言います。
「源義經奥州下向之時 適阻風波難 於船中祈御神矣 俄而風波始定 舳艫無恙也 於是寄附梵竹之横笛以賽明神也」(須須神社々傳縁起)
1185年(文治元年)に壇ノ浦で平家が滅亡した後、異母兄の源頼朝(1147-1199)と対立した源義経は、武蔵坊弁慶(?-1189)らを引き連れて奥州平泉へと落ち延びていきます。
奥州平泉へと向かうために船に乗って日本海を航行している最中、沖合にて風波の難に遭い、船中で義経が三崎権現(須須神社)に祈願したところ、やがて波風がおさまり、船の損傷もなく無事でした。
「都より 波の夜昼 うかれきて 道遠くして 憂目みる哉」(武蔵坊弁慶)
「憂目をば 藻塩とともに かき流し 悦びとなる 鈴の御岬は」(源義経)
加護を感謝した源義経たちは須須神社を訪れて、義経は所持していた蝉折の笛を、弁慶は守刀を奉納したと伝わっています。
「ほうくわん殿 この笛をこのすずのやしろにささげ給へとなん ありしよの そのあらましをきくからに 袖さへぬれてねにそなかるる」(前田利家)
その後、戦乱などによって須須神社の社堂は失われていきますが、1586年(天正14年)に前田利家(1538-1599)が能登を巡見した際、武運長久を願う祈願所として社堂を再建し、寺領を寄進したことで須須神社が再興されました。

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「ひぐらしが 鳴く奥能登の ゆきどまり」(山口誓子)
能登半島の最先端で高さ約46mの海岸段丘である禄剛崎(ろっこうさき)は、内浦と外浦の分岐点に当たり、日本海を航行する船にとって要所だったことから座礁などの海難事故が多く、奈良時代から烽火(狼煙, のろし)が焚かれたと言います。
そのことを由来の一つとして、禄剛崎周辺の地名は古くから現代に至るまで狼煙(のろし)と呼ばれており、1622年(元和8年)の能登古文書にも「能登鈴郡ぬるし村」と記されています。
「禄剛崎燈臺 能登國ノ極北東ナル禄剛崎ニ設立セル燈臺ニ於テ 第二等不動白色ノ燈明ヲ設ケ 来ル七月十日ノ夜ヲ始トシ 毎夜日没ヨリ日出マデ点火ス」(工部省告示「明治十六年 西暦千八百八十三年 第三號」)
禄剛崎に建てられた塔高12m・灯高48mの「禄剛埼灯台」(航路標識番号:1123)は、1883年(明治16年)に初点灯した白塔形の石造の灯台で、狼煙町に設置されているので狼煙の灯台とも呼ばれています。
禄剛埼灯台が設置された同年には、東京府に迎賓館である鹿鳴館が建てられ、明治を迎えた日本は国を挙げて西洋の文化を取り込もうとしていた時代でした。
1868年(慶応4年)に来日したリチャード・ブラントン(Richard Henry Brunton, 1841-1901)は、明治時代初期の灯台建設を指揮し、1876年(明治9年)に帰国するまでに26基もの灯台設計に携わったことから「日本の灯台の父」と呼ばれています。
「燈臺ハ石造白色ニシテ 基礎ヨリ燈火ニ至ルノ高サ二丈六尺ナリ」(同上)
禄剛埼灯台は円筒形の灯塔に半円形の付属舎が基部に付いたブラントン型灯台で、ブラントンを含めて外国人技師が帰国していない中、日本人技術者だけで設計された日本初の西洋式灯台と考えられています。
禄剛埼灯台の建造は困難を極め、使用する石材は小船で約60kmの海路を運び、禄剛崎の崖下に索道を設け人力で現場へ引き上げる難工事で、完成までにおよそ二年を要しましたが、厳寒期の冬季に作業ができなかったことから実質の工事日数は一年あまりだったと言います。
他のブラントン型灯台にはない特徴に、禄剛埼灯台の灯塔には和文の点灯開始日と菊の紋が施された記念額が掲げられ、踊り場の支え金具には菊の模様があしらわれています。
現在でもほぼ建造当時の姿のまま使用されている禄剛埼灯台は、海上保安庁が定める歴史的にも文化的にも最も価値の高いAランク(A〜Dの4段階)の保存灯台となっています。
「海面ヨリ燈火迄ノ高サ十五丈貳尺五寸ニシテ 光達距離ハ晴天ノ夜十八海里ナリ」(同上)
2024年(令和6年)の能登半島地震で、レンズを固定し遮蔽板が回転することによって灯火を一定間隔で点滅させ、18海里(約33km)先までを140年以上照らし続けていたフランス製の第二等不動フレネル式レンズが損傷し、当時の製造元(BARBIER & FENESTRE)はすでになく、修復が困難なことからLED灯器に入れ替えられました。
禄剛崎の開けた地に立つ白亜の足場付きの禄剛埼灯台、目の前に広がる日本海と快晴の空、そして日本列島の重心に近い地、申し分のない爽快な気分で海から上がってくる潮風を全身に受けることができます。
そして、砂浜の海岸線が続く内浦から巡ってたどり着いた禄剛崎から、岩礁風景の外浦へと景色が切り替わって、これから何が見えてくるのかと期待に心が躍ります。

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「白波の 打ち驚かす 岩の上に 寝らえて松の 幾世経ぬらん」(平時忠)
珠洲市北側の日本海に面した外浦に出ると、内浦の砂浜が広がる穏やかな海岸風景から一変し、山が海に迫り、ゴツゴツとした岩が露出した荒々しい姿が目に飛び込んできます。
外浦は地盤が持ち上がったことで生まれた隆起海岸で、内浦の地盤が沈んだことで生まれた沈降海岸とは異なる、一見して分かる特徴を備えています。
冬の外浦では、岩礁に打ち付けた日本海の荒波が砕けると白い泡状となって海岸一面を埋め尽くす「波の花」と呼ぶ現象が見られ、強い季節風が吹き付けると花吹雪のように舞い上がると言います。
波の花は、海中の植物プランクトン(珪藻類)が荒波にもまれ、岩に打ち付けられたことで滲出された体液が表面活性物質となって海水と混ざることにより、海水の表面張力が低下して泡立ち、粘性も増加したことにより、持続的で安定した海泡になっていると考えられており、白い海泡はしばらくすると黄色から茶色へと変色してしまうそうです。
外浦の厳しい環境では、海の波によって岩が浸食されたことで、奇岩と呼ばれる珍しい形や奇怪な形状をした岩石が生み出されることがあります。
とある大怪獣に姿形が似ていることからゴジラ岩と呼ぶ高さ約4mの海中から姿を現した奇岩があり、専用の駐車場が設けられるほどの名所の一つとなっていましたが、2024年(令和6年)の能登半島地震で周辺の海底が隆起したことでゴジラ岩は海面から完全に姿を現してしまうほど陸続きとなってしまいました。
これまでは海面あたりでこちらを伺っていたのが、とうとう上陸してきたかと地元の人々から恐れられており、しばらくしたら再び海へ戻ってくれるのかは、まだ今は様子見だと古くからゴジラ岩を見てきた方はそう笑って話してくれました。
よくよく、ここまでの外浦の海岸を見ていると、冬でもないのに波の花が発生したかのように、太陽に照らされ真っ白に輝く岩たちが黒い岩場の中にあるのが見て取れます。
北海道から来た旅行者が、夏にもかかわらず能登には流氷がやってくるのかと目を疑って地元の人に尋ねたことがあったそうで、耳を疑ってしまいましたが、なるほど確かに流氷のようだなと納得してしまうほど異質な姿を目の当たりにしているのは間違いなさそうです。

2024年(令和6年)の能登半島地震で、珠洲市の外浦では沖4kmまでの海底が約14kmにわたって最大で4mほど隆起し、海岸線が海側に向かって最大で175m拡大したことで、いくつかの漁港では港湾の底が海面に露出してしまい、漁船の出入りができない深刻な被害が出ており、これほどの海底隆起は数千年に一度の現象だと言います。
能登半島地震が発生する以前と比較すると、面積が珠洲市で1.72km²、西隣の輪島市で2.78km²、石川県全体では4.74km²増加したことが分かっています。
白く見える岩は、海底が隆起したことで露出した岩で、隆起する前の海中にあった岩の表面を覆っていた海藻(海苔)の仲間であるサンゴモが、海中より露出したことで干上がり白化したことによるものです。
死滅したことで白化したサンゴモは主に桃色から紅色をしていた紅藻類で、海水から炭酸カルシウムをつくり出して藻体内に多量に沈着させ、石灰化して硬くなることから石灰藻とも呼ばれています。
隆起した海岸に降り立って間近に白くなった岩が広がっているのを見ると、不謹慎ながらも今まで見たことがない光景に美しさを感じてしまいますが、かつてない地震によって引き起こされた事実を知ってしまうと、外浦の景色を見る前に抱いていた期待とは裏腹に、自然へのとてつもない畏怖を覚えます。

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「若山川の橋を渡り。野々江の里に至れバ塩田あり。珠洲の郡にハ。塩田。あまたあれども。こればかり大きなるハなしとなん。塩をやくにハ。まづ。砂の上に海水をまき。干て槽にいれ。これに海水をそゝぎてゑたゝらしたるを。釜にいれてまつむなり。」(武藤元信「能登日記」)
能登では、弥生時代から平安時代にかけてホンダワラ類の海藻を使って塩分を多量に含んだ鹹水(かんすい)を作り、鹹水を土器に入れて煮詰めることで塩づくりをする土器製塩が行われていたと考えられる土器片などの痕跡が多くの遺跡で残っており、珠洲市でも製塩に使われた土器片が30カ所ほどの遺跡から出土しています。
時代が移ると土器から土釜、そして石釜や鉄釜を使った製塩へと変わり、海水を人力で汲み上げ砂浜にまいて鹹水を作り、塩釜で煮詰めて塩づくりをする揚浜式製塩が広がっていったと言います。
江戸時代に入ると加賀藩主の前田利常(1594-1658)が、1627年(寛永4年)に製塩を奨励するために、能登の塩田所有者であり生産者でもある塩師(塩士, しおじ)に前もって米を貸し付け、その後に生産した塩を米の代わりに納める塩手米(しおてまい)の制度を始めたことで能登一帯に塩田が作られ、製塩業が盛んになっていきます。
塩士のもとで雇われて塩づくりの労務に従った者は浜仕(浜士, はまじ)と呼ばれ、一般的には一年契約であり、給与は技術など能力に応じた前払金でした。
能登においても、特に耕作が可能な土地が限られていた珠洲では、日照時間が長く海岸に砂浜のない外浦では海面より高い場所に粘土を敷いて人工の地盤を築いた塗浜と呼ばれる揚浜式の塩田が用いられ、砂浜のある内浦では自然浜を用いた揚浜式の塩田が海岸に隙間がないほどに広がり、いつしか加賀藩の財政を支えるほどになったと言います。
製塩の最盛期に入った1853年(嘉永6年)以降の能登では、年間40万俵(約2万トン)を超える生産量を誇りました。
江戸幕府が1867年(慶応3年)の大政奉還によって終わりを告げて新しい明治の世に入ると、能登の揚浜式塩田は苦難の時代を迎えることになります。
1871年(明治4年)の廃藩置県によって金沢藩(版籍奉還後の加賀藩)からの保護を失い、1872年(明治5年)に塩手米の制度が廃止されたことで、たちまち能登の製塩業は立ち行かなくなりますが、藻寄行蔵(1820-1886)の尽力で国から資金を借り受けたことで危機を脱しました。
「全廃?整理?岐路に立つ 能登の製塩業 事前に対策を講ぜよ」(北國新聞, 1928.5.8付「珠洲市史」より引用)
「あはれ能登塩田 9月卅日限り廃止 昨日整理実行発表さる」(北國新聞, 1929.5.25付「珠洲市史」より引用)
「九月末限をもって遂に 塩業者五百名の涙金として二万五六千円 一町八ヶ村にわたって」(北國新聞, 1929.9.26付「珠洲市史」より引用)
日清戦争(1894-1895)の後には安価で品質に勝る輸入塩(台湾塩など)が大量に入ってくるようになり、1905年(明治38年)には日露戦争(1904-1905)の戦費調達と政府の製造および販売の管理による国内への安定供給と価格の引き下げのために塩の専売制が施行され、1910年(明治43年)および1929年(昭和4年)の生産性の低い塩田を整理する塩業整備(製塩地整理)で能登での製塩は珠洲外浦の一部と隣の鳳至(ふげし)を除いて禁止され、珠洲では内浦の塩田所有者は64名で外浦は33名、就業者および雇われて従事する男性347名と女性135名の計482名が製塩業から離れることになりました。
珠洲における製塩の際に使用する釜の数が、1905年(明治38年)には1,144基、1911年(明治44年)には992基でしたが、1930年(昭和5年)には215基となり、その後も年を追うごとに減少していきます。
「この法律は、塩の需給を調整するため、塩業整理交付金の交付等の措置を講じて塩業の過剰生産力の円滑かつ適正な整理を行い、もつて国内塩業の基盤の強化及び塩専売事業の健全な運営に資することを目的とする。」(塩業整備臨時措置法)
1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まると、塩の生産が減少したことで深刻な塩不足に陥り、1945年(昭和20年)の終戦後に塩の生産を奨励しましたが、1958年(昭和33年)には塩不足から一転して生産過剰となり、生産性の劣る製塩方法を用いる塩田の多くを整理する必要が出てきました。
1959年(昭和34年)の塩業整備臨時措置法によって生産性の低い塩田が廃止されたことで、能登の揚浜式塩田は全廃になりますが、文化財保護と観光用として能登の三軒だけが存続を許可されました。
しかしながら、1961年(昭和36年)に後継者問題や買上限度額の制約があったことで製塩業では生活ができず二軒が廃業したため、唯一残った珠洲の一軒が揚浜式塩田での伝統的な塩づくりを現代にまで引き継ぎました。
「この法律は、塩業の経済的諸条件の変化に対処して、新技術による塩の製造方法への転換を基本にその近代化を促進するため、塩業整理交付金の交付に関する措置等を講ずることにより、塩田等の整理を行なうとともに塩の価格の国際水準へのさや寄せを図り、もつて塩業の自立化のための基盤を醸成することを目的とする。」(塩業の整備及び近代化の促進に関する臨時措置法)
塩は食用としてだけではなく、工業用としても石けんや肥料、ガラスやプラスチック、時には爆薬といった生活用品や工業製品などの製造に必要不可欠であるため、安定した供給と、輸入塩並みに安価で生産性が高く、国際競争力のある新たな製塩方法が望まれていました。
1971年(昭和46年)の塩業近代化臨時措置法によって、広大な塩田が不要で天候に影響されず効率的に生産できるイオン交換膜製塩への全面転換がなされたことで、神事での製塩や試験研究用を除いて、国の保護が必要で近代化に適応できない日本全土のすべての塩田は、観光用の珠洲の一軒を残して強制的に廃止となりました。
イオン交換膜法で製塩された塩は精製塩と呼ばれ、塩化ナトリウム含有量が99.5%以上と高純度で、有害物質を含まず安全性が高いことが特徴ですが、塩化ナトリウム以外のカリウムやマグネシウムなどがほとんど含まれていないため、過剰な摂取によって体内の水分調整機能が乱れ、高血圧やむくみなどを招くことがあります。
2023年(令和5年)に日本で生産された約80万トンの塩のうち90%以上をイオン交換膜製塩で占めていますが、年間に消費する約680万トンのうち、主に約600万トンの工業用の塩をメキシコやオーストラリアなどからの輸入に頼っており、食用の塩は国内でまかなえても、日本の自給率は約12%となっています。
「この法律は、塩専売制度の廃止に伴い、塩が国民生活に不可欠な代替性のない物資であることにかんがみ、塩事業の適切な運営による良質な塩の安定的な供給の確保と我が国塩産業の健全な発展を図るために必要な措置を講ずることとし、もって国民生活の安定に資することを目的とする。」(塩事業法)
1996年(平成8年)の塩事業法によって、1997年(平成9年)に規制緩和の一環として塩の専売制が廃止され、2002年(平成14年)には塩の製造と販売が完全に自由化されたことで、能登の揚浜式塩田が民間事業者らによって再興され、暖流の対馬海流と寒流のリマン海流が交錯した日本海の豊かな旨味を濃縮する塩をより多くの人が口にすることができるようになりました。

「珠洲の郡上堂鳥井濱の邊は、取りわき盬竈多き所なり。愚老豫々、歌に聞き詩に見えし所にては、盬竈の風景物あはれにをかしき事と思ひしに、此の邊りに來りて熟覧するに、かの盬汲女は炎天に曝され、いつ髪を結ひしにもあらず。こし切りなる布子に繩帶して、色こそ黑けれ、髪こそ亂るれ、猿ともなく貉ともなく、人とは更に見え分かず。なんぞ男女の別を見んや。… 愚老此の邊りに十日計り滯留せしが、いつもゝ涙にむせびぬ。叉盬がまのけしきは、いかなる鬼も是に過ぎじと思ふ計り風情なり。是等を歌に讀み詩に作りて翫賞するは、甚だしきにあらずや。されども此の心を知りて、世渡りのくるしみを雲客なんどに告げ知らしめんとならば、亦謂れなきにしもあらず。」(上田作之丞「老の路種〔盬汲女〕」)
江戸時代は、瀬戸内海沿岸を中心とした満潮と干潮の水位差を利用して原料となる海水を塩田に引き入れる入浜式塩田を主流にしており、入浜式の製塩は揚浜式と比べると、海水を汲む潮汲みや砂に撒く潮撒きの労力を減らし、大規模な塩田が可能で生産性が高いことが特徴です。
1953年(昭和28年)頃になると入浜式塩田を改良し、地盤に傾斜を付けた流下盤と柱に竹の小枝を階段状に組んだ枝条架を使って太陽熱と風の力で水分を蒸発させる流下式塩田が広まり、労力は大幅に軽減されて生産量は増大しましたが、その結果として塩の生産過剰を招き、塩事業の収支が悪化したことで、流下式より生産性の劣る入浜式と揚浜式の塩田の多くが1959年(昭和34年)以降に消えていく運命をたどりました。
能登では、満潮と干潮の差が小さすぎるため、入浜式での製塩は適さないことから、古来からの揚浜式塩田での塩づくりが行われてきました。
日本の気候は湿度が高く雨がよく降るため、海水を天日(太陽の熱)だけで蒸発させて塩をとる完全天日製塩を行うことは困難なことで、海水から塩をつくるには原料となる海水の97%の水分を蒸発させる必要があり、蒸発量は気温に正比例し、湿度に反比例し、風速にも関係します。
「撒く時の両手の巧妙な動き、その動きと共に海水が思う所へ霧散する。引桶の真中から出た二本の赤銅色の逞しい足、名彫刻家の荒削りの像のような真裸の姿、肩の赤銅筋肉が夕日に映え、撒かれる海水が夕暮れの深緑の山を背景にして白く光る様、実に芸術品であり、一幅の名画である。」(恒元福二「すゞろものがたり〔珠洲郡西海村の製塩法〕」絶版ゆえ「珠洲市史」より引用)
時は1942年(昭和17年)あたりの頃、揚浜式塩田における塩づくりは日が昇る前に始まります。
長さ約1.5mの丸棒である肩荷棒(かたにぼう, 担棒)の両端に吊した一個約36L入る荒潮桶(あらしおおけ, かえ桶)で80kgを超える海水を汲み上げて約540L入る引桶(しこけ)に溜まるまでに数往復ほど繰り返し、引桶の海水を砲弾型のおちょけとも呼ぶ打桶(うちおけ)で敷き詰めならした骸砂(がいさ, 塩分が抽出された後の砂)に1時間余りの潮撒きをします。
砂の乾き具合と天候を見ながら、場合によっては引桶に二杯撒くこともあります。
潮撒きで、海水を均一に撒けるようになるには10年の経験で得る熟練の技を必要とし、荷桶で海水を汲み上げる潮汲みもまた3年を要します。
朝食を終えたら釜焚き用に山へ間伐材を利用した薪(たきぎ)を取りに行きます。
塩づくりに欠かせない燃料となる薪は塩木(しおぎ)と呼ばれ、一回の釜焚きに190kgほど使用する燃料費は生産費の多くを占めており、塩木代を払えなくて住居を売却した例もあったと言います。
昼食後の午後になると一家総出となり、炎天下のもとで熊手のような細攫(細把, こまざらえ)を使って乾いて固くなり塩田地盤に張り付いた鹹砂(かんしゃ, 塩分が付着した砂)をゆるめてから、主に女手や子供が柄振(いぶり)を使って鹹砂を塩田の中央に固定されたコンクリート製の135cm・123cmの四角い枠の沼井(ぬい)に向けて集め、男手が集めた鹹砂を沼井の上に組み立てた木製の箱である垂舟(たれふね, 狭間桶)に入れ、汲んできた海水を垂舟に入った鹹砂の上に注ぎ入れて塩分濃度が約15〜18%の鹹水(かんすい)を採り、約43L入る実桶(みおけ)を使って釜屋まで運びます。
次の潮撒きのために、まずは塩田一面に引桶一杯分ほどの海水を撒いて塩田地盤に海水を十分に浸透させておいてから、垂舟の中の骸砂を塩田に戻して細攫で均等に広げます。
その後、再び潮撒きをして塩田での一日の作業が終了します。
塩田は約50〜60坪(165〜198m²)を単位に沼井を一個設け、沼井を二個設ける約100〜120坪が一般的な塩田の広さで、中には沼井を三個、四個と設けている広い塩田もあったと言います。
釜焚きは平釜で、塩分濃度が24%程度になるまで数時間煮詰める荒焚きを行います。
荒焚きした鹹水を一日程度冷ましたら、竹炭や砂などが入った胴桶(どうけ)でろ過と脱色をし、60℃を超える暑い釜屋の中で焦げ付かないように夜を徹して十数時間ほど煮詰める本焚きをすると、やがて釜の表面に塩の結晶の山が現れ、火加減を調整しながら灰汁(あく)を取り、丁寧に仕上げていきます。
焚き上がった塩を釜から出して寝かせることで苦汁(にがり)を切り、切り終わった塩は選別場で不純物が取り除かれることでようやく納める塩となります。
できあがった塩は、叺(かます, 35kg入る藁でできた袋)に入れて梱包し、船で専売局大谷出張所の倉庫に運び入れ、検査を受けて収納を終えます。
約650Lの釜焚き一回で得られる塩は100kgほどになり、年間の生産量は沼井一個の塩田で2,000kgほどであったと言います。
塩の売り上げは、一叺35kgで2円62銭ほどで、年額で150円ほどになったと言い、白米10kgで3.3円、蕎麦一杯15銭、映画館入場料1円、巡査の初任給が45円ほどだった時代です。
天候に左右される揚浜式製塩は重労働にもかかわらず生産性が高い製塩法ではなく、叺や塩木代など、臨時で人を雇う必要もあったことから、塩づくりだけでは一家の生活を支えられるほどの収入を得られず、夏期の塩づくりが終わると冬期に漁業や出稼ぎに出たりして生計を立てていました。
塩づくりは重労働であったけれども、老若男女、男手女手がそれぞれ役割を持って一日働き、まだ小さな子どもは親の手伝いをするなど互いに協力し支え合いながら、時には塩田で笑い合い、家族一丸となって目的を達成することに大きな喜びを感じていたと言います。
「おらは雇人 しかたの風だ お日の入る場を待つばかり」(砂取節)
塩田に使われる砂は、均質で粗くも細かくもなく、泥分をほとんど含まないものが最良とされています。
外浦の塗浜の塩田に撒かれた砂は、風に飛ばされたり雨に流されたりするため二年ごとに入れ替えられ、まだ春先の寒い中を良質な砂取場である珠洲の寄揚浜の砂を転覆しやすい小さな船に多量に積み、命がけで塩田に運んだと言います。
寄揚浜の砂を船に運ぶ際に唄われた労働歌が砂取節で、雇われの身で仕事が非常につらいので日が暮れるのを待つなど、夏の塩田作業のつらさなどと言った悲哀感が歌詞に込められ、江戸時代から唄い継がれていきました。
寄揚浜は、1959年(昭和34年)に塩田の廃止により役割を終えたことで、砂取節を唄い砂を船に運ぶことはなくなりました。
現代においては、電動ポンプを用いて海水を汲み上げることができるようになったことで、使用すれば海まで海水を汲みに行く労力は減らせるようになりましたが、それ以外の塩づくりの工程は昔とほぼ変わらない作業を行っています。
江戸時代からそれほど変わっていない塩づくりの長い歴史があるにも関わらず、珠洲を含めた能登での明治時代中期以降の製塩業に関する資料は、残念ながら1959年(昭和34年)の塩業整備により能登塩業組合が解散したため散逸してしまい、塩業整備に関すること以外の明治時代中期から昭和初期までの具体的な活動状況がほとんど分かっていないと言います。
2024年(令和6年)の能登半島地震による海底隆起で塩田を取り巻く状況が一変しました。
塩田に亀裂が入るなどの被害が出て、海岸線が以前より遠くなって足場が悪くなったことで海水を直接汲むことが困難な状況となり、電動ポンプを使用するのにもホースを伸ばす距離が倍以上に伸びたため、より強い動力が必要となったことから動かせないなど、さまざまな問題を抱えて塩田の存続が危ぶまれるほどの大きな被害を受けました。
寄揚浜も海底が大きく隆起したことで、砂取節が唄われた景色はもう見ることができなくなりました。

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「高志之都都乃三埼矣 國之餘有耶見者 國之餘有詔而 童女胸鉏所取而 大魚之支太衝別而 波太須須支穗振別而 三身之網打挂而 霜黑葛聞耶々爾 河船之毛々曾々呂々爾 國來々々引來縫國者 三穗之埼」(出雲國風土記)
733年(天平5年)に完成した出雲国風土記には、八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が高志(越)の都都(珠洲)の余っている地を切り離して、太い綱で引っ張り、河船を引くように引き寄せて縫い付けたのが島根半島の東端の美穂崎(美保関)だと言います。
そのことから、1988年(昭和63年)から珠洲市と美保関町(合併して現在は島根県松江市)は姉妹都市提携を結んでおり、2024年(令和6年)の能登半島地震で珠洲市が被災した際に、松江市は災害支援やふるさと納税の代理寄附受付を行いました。
また、国造りの神である大国主神(所造天下大神, おおくにぬしのみこと)と高志国(越国)の姫神である奴奈宜波比売命(ぬなかわひめのみこと)の間に生まれた美穂須須美命(みほすすみのみこと)は、美穂崎(美保関)と都都(珠洲)の二つの地を結ぶ姫神として、現在は美保関の美保神社の境外末社である地主社と珠洲の須須神社に祀られています。
「平大納言時忠卿ノ宣ヒケルハ此一門ニアラサラン者ハ皆人非人タルヘシトソ宣ケル」(平家物語)
出雲国から大国主神が来臨して平定したと伝わる能登半島は、757年(天平宝字元年)に再び能登国として越中国から分立します。
能登国の奥郡、珠洲に平時忠(1130-1189)は1185年(文治元年)の壇ノ浦の合戦で敗れて捕虜となった後、配流されました。
平時忠の娘(蕨姫)を娶っていた源義経が、奥州平泉へ下向する途中に珠洲にいる時忠を訪ねたとも伝えられています。
もしかしたら平時忠と源義経が目にしたかもしれない、須恵器の技法を用いて平安時代末期から生産され、室町時代後期に忽然と姿を消した灰黒色の陶器が珠洲にあったと言います。
現在でもほぼ完全な姿を保った陶磁器の焼成窯である窖窯(あながま)が珠洲市には残っており、他の窯跡や陶片の発見をきっかけに、窯の中の酸素を少なくして不完全燃焼の状態で焼く還元炎焼成で1200℃以上の高温で焼き締める古来の製法を蘇らせ、1979年(昭和54年)に珠洲焼として再興されました。
「流出重油 外浦一帯へ再漂着 珠洲 『揚浜塩田』にも迫る…」(毎日新聞, 1997.1.21付)
1997年(平成9年)の冬、火力発電用の燃料1万9,000kLを満載したロシア船籍のタンカーであるナホトカ(NAKHODKA)が島根県隠岐島沖を航海中に遭遇した風速約20m、波高約6mの大嵐によって難破しました。
船齢26年の老朽船だったナホトカの船体は2つに折れて船尾部は沈没し、船首部は漂流して福井県三国町沖に座礁し、折損部から流出した大量の重油は風浪によって撹拌されて日本海側の延べ1,000kmにわたって海岸に漂着しました。
このことで海が汚染され、岩海苔の最盛期に重なったことから漁業だけでなく、重油が羽に付着して飛べなくなった海鳥が現れるなどの生態系や観光業にも甚大な被害を与えました。
重油は能登半島の外浦海岸一帯にも到達し、珠洲の海には厚さが3〜10cmにもなる大量の塊が海上を漂流し、真っ黒に染まった海は回復が絶望的であり、海は死んでしまったと誰もが思ったと言います。
真冬の季節風が冷たく吹き付け、人を寄せ付けない岩礁が続く外浦の過酷な状況の中で、重油を回収するために住民やボランティア、自衛隊など延べ数十万人もの人々が被災した各地に集まり、波打ち際ではヒシャクなどで漂着した重油をすくってバケツに移し、さらに足場の悪い岩場ではバケツリレーで回収するなどの人海戦術や、ポンプなど考え得るあらゆる機械を活用して回収し、ドラム缶に入れられました。
海上に漂流する重油は延べ約4,700隻の船艇が回収にあたるなど、数カ月にも及んだ作業で、汚染された砂や海水などを含む約5万9,000kL(ドラム缶約29万5,000本)もの重油が回収されました。
珠洲市には、他よりも粘度の高い重油が漂着したことでより困難な作業となりましたが、延べ3万5,000人もの人々によって3カ月余りで約4,800kL(ドラム缶約2万4,000本)の重油を回収できたことで、絶望的な状況だった海を元の姿に戻すことができました。
今では何事もなかったかのように悠然と広がる日本海、その姿を望める珠洲の外浦には、危険な作業にも関わらず回収に集った多くの人々への感謝とともに、美しい海をいつまでも守っていくことを誓い、この事件を風化させることなく後世に伝えるための記念碑が建てられています。
「珠洲能宇美爾 安佐妣良伎之弖 許藝久礼婆 奈我波麻能宇良爾 都奇底理爾家里」(大伴家持「萬葉集 巻一七・四〇二九」)
能登国での出挙を終えた大伴家持は、朝早くに珠洲から船で越中国府への帰路につきました。
船は陸地に沿って海を南下し、浜に着く頃にはあたりはすっかり暗くなり、空には月が照っていたと言います。
美しく照っていたであろう月を仰ぎ見た大伴家持は、いったい何を思っていたのだろうか。
無事に帰り着いた安堵とともに、都育ちの大伴家持が見た美しい海と山々に囲まれる珠洲など、能登で過ごした哀歓に満ちた束の間の日々に思いを馳せたのかも知れません。
泰澄が岬に鉢の子を納め、空海が三杵の一つを見つけ、源義経が愛用の笛を奉納した時代、揚浜式塩田が海辺一帯に広がり、日本初の洋式灯台が建造された時代、それぞれの時代のさまざまな事柄を経て、現代の珠洲の姿は往古よりどれほど様変わりしたのでしょうか。
それぞれの時代においても、夜空に照る月は同じ満ち欠けを変わらず繰り返し、満天の星は季節ごとにほぼ変わらない位置で瞬いていると言います。
今宵は新月を迎えた頃のため、月は細いが、夜空一面の星々が瞬いているのを仰ぎ見ることができます。
時代がどれほど移り、あたりの景色がどれだけ変わり、人工の光源がどんなに邪魔しようとも、今仰ぎ見ている星月夜は、もしかしたらどこかの時代の誰かが仰ぎ見ていた夜空と同じなのかもしれません。
そして今宵でなくても、夜空に浮かぶ月や星を仰ぎ見た誰もが、ひとときの物思いにふけたり、誰かや何かに思いを馳せたり、流れる星に思いを乗せたりすることでしょう。
その時に抱えていたであろう喜びだけではない、寂しさや悲しみなど心を深く揺り動かす思いを、どの時代に生きていた誰もが同じように、心の内を夜空の月や星に映し出したのだろうかと、暗夜の中を星影に照らされてうっすらと見える見附島と静かに響く波音を聞きながら、ぼんやりと考えてしまいます。

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