絞り – SHIBORI –
日本の絞り
絞り染めは、布を括(くく)ったり縫い縮めたり挟んだりして、縮まったその部分に染料が入らないようにして染める防染手法のことです。(※括る:糸や紐(ひも)で縛ること)
草や樹木、動物の皮などをまとっていた原始時代から長い時を経て、人類は糸を生み出し、糸からは布が作られるようになりました。やがて織物や染色が発達し、その手法は多彩に変化発展を遂げていきました。
染色は世界各地で自然発生的に行われてきました。日本では『古事記(こじき)』や『万葉集(まんようしゅう)』に染色に関する記述が見られますが、実は日本の歴史が記されるようになる以前の縄文・弥生時代から染色が行われていたと考えられています。その後、5世紀前半頃になると、大陸から日本に渡り帰化した秦(はた)氏によって、織の技術、染色の技術がもたらされて大きな進歩を遂げることになります。飛鳥・天平(あすか・てんぴょう)時代を迎えると染色技術はさらに進歩、中国や朝鮮半島から明礬(みょうばん)や硫酸鉄などを使用する媒染(ばいせん)技術も伝来し、美しい色染めが可能になったのです。
染色技術の発展の中で、文様をつける手法が編み出されました。その一つが絞り染めです。絞り染めも世界各地で自然発生していますが、日本では6~7世紀には既に行われていたようです。天平時代を中心とする美術工芸品を集めた正倉院(しょうそういん)に収蔵されている「纐纈(こうけち)」は「ろう纈」「夾纈(きょうけち)」と共に「三纈」と称される染めのこと。その中で「纐纈」が絞り染めのことです。
平安(へいあん)時代になると、貴族のかさね衣装の下着や裏地などに絞り染めが見られますが、庶民は麻に藍の絞り染めを施した衣服を身につけていました。この頃はまだ、絞り染めは表舞台に立つような地位にはありませんでしたが、やがて戦国時代から安土桃山(あづちももやま)時代になると、華やかな衣装としての絞り染めが見られるようになりました。その代表的なものが「辻が花(つじがはな)」と呼ばれる絞り染めでしょう。多色を使い分けた縫い絞りを基本に、刺繍(ししゅう)や摺箔(すりはく)を施した豪華なものです。江戸(えど)時代に入って間もなく「辻が花」は姿を消してしまいましたが、その背景には様々な染色技法の発達があり、辻が花の様な絵画的な織りや染色が手間をかけることなく可能になったことも一因となったのでした。
絞り染めが本格的に発展するのは江戸時代のこと。近世における絞り染めは、絹に絞り染めを施した「京鹿の子(きょうかのこ)」と、木綿に藍染めした庶民的な「地方絞り」に大別されます。
この「地方絞り」が盛んになったのは、国産木綿が江戸時代に普及したからでした。そもそも日本に綿が入ってきたのは790年代の終り頃。外国から漂着した積荷の中に綿の種子があったといわれますが日本に根付くことはなく、栽培が盛んに行われたのは15世紀になってからのこと、温暖な気候の西日本を中心として国産木綿が盛んに栽培されるようになりました。木綿が大量生産されるようになると、浴衣(ゆかた)や手ぬぐいなど庶民の絞り染色が広まっていきます。
綿布の絞り染めを世間に知らしめたのは、九州の豊後(ぶんご)(大分県)で作られた豊後絞りでしょう。最初は自家用のためのものでしたが、豊後は海路(かいろ)の拠点として栄え、参勤交代(さんきんこうたい)や交易など多くの人々が行き交う地であったことから、豊後絞りの製品は旅人の土産品としてその名を馳せるようになりました。豊後絞りは徳川(とくがわ)時代初期、名古屋城築城に伴って尾張(おわり)名古屋の地にもたらされました。普請(ふしん)で働く豊後の人々と共に、尾張に移り住んだ人の中に三浦某という人物が居り、尾張の地で絞りの手ほどきをしたとも伝えられています。有松(ありまつ)・鳴海(なるみ)では、この伝播(でんぱ)した豊後絞りから独自の発展を遂げるのです。現在でも残る「豊後絞り」「三浦絞り」の名はこのことを表す証といえるでしょう。綿布に藍の絞り染めから、紅染め、紫根染めも生まれ多種多様に展開、また有松は近くに三河(みかわ)木綿や知多(ちた)木綿の産地があり、絞り生産は隆盛を究めていきました。有松・鳴海絞りの種類は百種を有に超え、文様、手法、技術ともに日本一の絞り染め産地となったのです。
江戸時代後期の木綿絞りは、街道や廻船(かいせん)によって日本中に広まり、大分の別府(べっぷ)絞りや秋田の浅舞(あさまい)絞りなど各地に産業としての絞り生産地を形作っていきました。
庶民に愛された綿布の絞り染めは、日本の庶民生活の中で花開いた用(よう)と美の結晶でもあるのです。
現代では綿だけでなく絹や化繊など様々な素材に絞り染めが行われています。
引き継がれる手技
絞り染めの単純なものは簡単な材料や道具で出来るため、かなり古い時代から行われていたと考えられています。それが庶民文化を形作るほどの発展を遂げるのは、美に対する欲求と工夫にほかなりません。色や文様、素材は社会的地位や格式を表した時代もあり、庶民が身につけられる衣服などは限られていました。その範囲の中でより美しく個性的なものを考案してきたという歴史があるのです。
有松での絞りの歴史は1610年の名古屋城築城に始まります。城が建ち街道が整備され、多くの人々が移り住んだ有松地方。尾張藩の庇護(ひご)の下で有松・鳴海絞りは発展していきます。尾張藩から営業独占権を与えられ、産業としての有松・鳴海絞りは隆盛を究めていきました。販売量が増えると生産体制も変化し、括り職、染め職、販売業といった分業の仕組みが生まれます。それぞれの分野で研究、開発、革新が進み幾多の技法が編み出されていきます。たとえば括り職は、一人一種の絞りを専門にその技を高めていきました。
今では再現できないものもありますが、逆に新たな手法も生み出されています。修練による確かな手技、創造する思考…長い歴史の中で培われた職人魂が、今日の絞りにも引き継がれているのです。
古き日本の趣を残す有松の地
有松は江戸時代、東海道の街道筋で発展してきた町。その始まりは慶長(けいちょう)13年(1608年)、尾張藩の奨励によって開村しました。やがて多くの人がこの地に移り住み、特権を得た絞り生産を業として、東海道屈指の賑わいを見せたのでした。
今も旧街道沿いには連子格子(れんじごうし)に虫籠窓(むかごまど)、駒(こま)寄せのある豪壮な商家、漆喰(しっくい)白壁、なまこ壁の蔵など、江戸時代の町屋建築の家並が往時の面影を色濃く残しています。有松は天明(てんめい)4年(1784年)の大火で町の大半が焼失しましたが、再建の際には火災に備えた漆喰の塗籠(ぬりごめ)造り、瓦葺(かわらぶき)屋根で造られました。歌川広重(うたがわひろしげ)の浮世絵『東海道五十三次』に描かれた町の佇まいは今も残り、かつての街道情緒を偲ばせています。
文 / 宮崎 ゆかり