鳥取砂丘・時をかけた風と砂の共作

「長さ四五里にわたるといふ、この海岸の砂地の入口にも行つて立つて見た。黄ばんだ熱い砂、短い草、さうしたさびしい眺めにも沙漠の中の緑土のやうに松林の見られるところもあつて、炎天に高く舞ひあがる一羽の鳶が私達の眼に入つた。」(島崎藤村「山陰土産」より)
鳥取県鳥取市の北部には、日本海に面し、冬の強い季節風によって砂が幾度となく運ばれたことで形成された海岸砂丘の『鳥取砂丘(とっとりさきゅう)』があります。
年間に降る雨が250mm以下で動植物の生育が困難な乾燥した内陸に、風によって粒径2mm以下の砂(風成砂)が堆積した「砂漠」(砂砂漠)とは異なり、温暖で湿潤な気候により雨が降り、風によって運ばれた砂(風成砂)が海岸に沿って丘のように堆積したものを「砂丘」と呼んでいます。
年間に約2,000mmの雨が降ることで動植物が生育できる環境があり、冬季に吹く北西の季節風によって平均粒径0.2〜0.3mmの砂が長い年月をかけて積み重なってできた鳥取砂丘は、東西に約16km・南北に最大約2.4kmの規模を持ち、1955年(昭和30年)に砂丘地の約30haが国の天然記念物として、1963年(昭和38年)には113haが山陰海岸国立公園の特別保護地区(厳重な景観の維持が図られる地区)に指定され、後に146.2haが天然記念物に、131haが特別保護地区として指定拡大されます。
本来の鳥取砂丘は西から末恒砂丘・湖山砂丘・浜坂砂丘・福部砂丘の4つの砂丘で成り立っていますが、湖山砂丘と浜坂砂丘の間を流れている千代川(せんだいがわ)の東側の浜坂砂丘のことを一般的には鳥取砂丘と称しています。
なお、砂丘と呼ばれるようになったのは明治時代からで、それ以前には砂山や高浜、浜坂などと呼ばれていたと言います。

「松林を離れると直ぐ砂浜である。果ても無い砂浜である。防風が紅い茎を僅ばかり現はして砂に萌え出でゝ居る。碧い海が見える。」(坂本四方太「夢の如し」より)
浜坂砂丘こと鳥取砂丘には、海岸線にほぼ平行する横列砂丘である3つの砂丘列があり、北西側からそれぞれ第一砂丘列・第二砂丘列・第三砂丘列となっており、特に誰もが目に付く標高約47mの第二砂丘列は馬の背中に見えることから「馬の背」の愛称で呼ばれています。
砂丘の傾斜角度は、風上の海側では7〜10度と緩やかな角度ですが、風下の内陸側では32〜35度のかなり急な斜面になっており、これは乾いた砂がもう斜面を流れずに安定を保つ角度である安息角になっていると言います。
砂の急斜面を上がりきった先の、海からの風が吹き付ける馬の背の頂上からは、一面に広がる紺碧の日本海が見渡せ、沖合には今にも潮を吹き出しそうなクジラの姿をした海士島(あもうじま)が見えます。
眼下には波が寄せるわずかな浜辺が見え、馬の背を下って浜にたどり着こうと考えるには躊躇する高さがあり、この高さまでの砂がいったいどのようにして積み上がったのだろうかと考えてしまいます。
「浜坂の遠き砂丘の中にして さびしき我を見出でけるかも」(有島武郎)
鳥取砂丘は、細かな砂が単に厚く堆積しているのではなく、主に花崗岩類や火山岩類を基盤層に、砂礫層や粘土層などが重なり、さらに水中に堆積した水成砂層の上に、砂の性質が異なる「古砂丘」と「新砂丘」と呼ぶ2つの厚い風成砂層があり、風成砂層の間には大山倉吉軽石層を含む火山灰層が挟まる複数の地層で成り立っています。
遙か昔の20万〜15万年前は、この踏みしめている馬の背を含めた砂丘そのものが存在しておらず、現在よりもずっと海面が高く、内陸の奥深くまで海が入り込んだ「古鳥取湾」と呼ぶ大きな内湾になっていたと言います。
13万年前頃の最終間氷期になると、海面が現在とほぼ同じ高さに低下したことで内湾が陸化し、打ち上げられた砂と海底の砂層が海面に現れたことにより、大量の砂(風成砂)が北西の季節風によって運ばれ、古砂丘と呼ぶ砂丘が生まれました。
その後、最終氷期を迎えたことで海面が急下降していったため、海岸線が北に遠ざかり、古砂丘は内陸の小高い丘となり、海岸近くには新たな小型の砂丘列が生まれました。
約5万5千年前には砂丘の西方にある大山(だいせん)が噴火したことによって、火山灰や軽石が古砂丘の一帯に厚く降り積もり覆ったことで砂が埋もれ、風によって運ばれる砂がほとんど飛んでこなくなったため、砂丘の形成が止まってしまいました。
地球全体が温暖化する約6千年前になると、縄文海進と呼ぶ海面の急上昇によって再び海が入り込み、内湾ができていきました。
砂の移動がなくなっていた古砂丘は、火山灰を由来とする黒ボク層が形成されたことによって草原と化していたため、動物が生息できるようになり、内湾では魚介類が捕れたことから、縄文人が草原化した砂丘に進出して生活するようになっていました。
約5千年前に寒冷化が始まり、縄文海退と呼ぶ海面の低下によって堆積していた砂層が再び現れ、山地からは風化作用により花崗岩質の岩石が細かい砂となって千代川を流れ、海へと運ばれていきました。
そして、波によって岸に打ち上げられた大量の砂は季節風に乗って草原と化していた古砂丘を再び覆い、新砂丘と呼ぶ新たな砂層を形成し始めたことから、現在の鳥取砂丘へと繋がっていったと言います。
気候変動による海面の変化や噴火、海や川の流れによる砂の移動、北西の季節風によって幾度となく運ばれた砂、馬の背を含めた鳥取の砂丘の誕生に気が遠くなるほどの時をかけて砂が積み重なっていったことにただただ驚嘆します。
馬の背の頂上から、意を決して靴の中に砂を入り込ませながら海へと向かって転げずに波打ち際まで下り、下った先で海を背に後ろを振り向くと大きくそびえた砂の姿に圧倒され、自然が生み出した得体のしれない灰白色の砂山にどこか底知れない寂寥感を覚えてしまいます。

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「沙丘踏み さびしき夢に与かれる われと覚えて涙流るる」(与謝野晶子)
馬の背の南側の麓には、ときおり池のような「オアシス」と呼ばれる水たまりが出現します。
そのオアシスに通じている川筋は、遡ると100mほど離れたところにある湧き水へとつながり、湧き水から絶え間なく染み出てくる水は、川となって下流のオアシスへと注がれますが、オアシスが消滅すると尻無川となり、川もまた砂の中へと消え去ってしまうと言います。
鳥取砂丘に現れるオアシスは年間を通して発生と消滅を繰り返すため、砂漠などの乾燥地帯に存在する常に水が湧いて植生が見られるオアシスとは異なっており、鳥取砂丘に出現する水たまりは砂丘湖に分類されると考えられています。
鳥取砂丘は特別保護地区に指定されていたことから、水深が1mを超えることもある鳥取砂丘のオアシスが、どのようにして発生するのかは2010年(平成22年)に本格的に調査されるまでは推測で語られ、長らく解明されていなかったと言います。
現在では、砂丘に降った雨が砂に染みこむと、地下にある火山灰層が帯水層となっていることから、雨水の一部が地下水の宙水(ちゅうみず)を形成し、降水量が増えることで地下水面が高くなり、南東から北西方面へと流れている地下水が、砂丘の表面に染み出てくることでオアシスを形成し、湧き水を生み出していると考えられています。
実際に雨が降るとオアシスの水位が上がり、雨が止むとしばらくして水位が下がり始め、雪解け時にはオアシスの大きさが最大化するが、雨の少ない時期にはオアシスは砂に吸収されて消滅してしまうことから、降水による地下水の水位変化が大きく関係していると考えられていますが、長期的な観測がまだ必要であり、解明しきれていない謎が残っていると言います。

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「風紋を 見し目に仰ぐ 鰯雲」(稲畑汀子)
鳥取砂丘を歩いていると、水面に広がるさざ波のようだったり、いろいろな砂の表情が見て取れます。
風によって砂の表面に現れる模様は風紋(砂漣)と呼ばれ、風速4〜5mほどで砂が動き始め、風速5~10mほどで美しい模様が形成され、風速10mを大きく超えると風紋は消えていきます。
乾いた砂が風によって移動する際には、砂の大きさや重さによって転がったり跳躍したり浮遊しているようで、確かに砂丘の表面をよく見てみると霞んでおり、海からの程よい風にも関わらず砂が舞い上がったり砂の上を転がったりと、風下側に向けて風紋を創り上げて少しずつ模様が変化していっている様子が分かります。
風紋には、降雨を伴う強風時に安息角以上の急斜面に見られる乾いた砂が集団で流れ落ちて簾(すだれ)に似ていることから「砂簾(されん)」、強風に伴う降雨により砂丘表面に薄い泥の層が形成される「クラスト」、貝殻や木片などが風食抵抗となり三角錐状の地形が現れる「砂柱(さちゅう)」、降雨の後に強い風が吹くと湿った砂の色と乾いた砂の色による縞模様が現れる「風成横列(ふうせいおうれつ)シート」などと名付けられており、今日は昨日と違う、夕方には今と違う、明日には今日とは違う生きた表情を醸し出してくれます。
「濱の坂へかゝる是伹馬への往還筋なり西北は滄海東南は山續きにて海と山との間沙漠渺茫として往々道を取失ふことありよりて所々に表木を立て往來の便となす」(阿陪恭庵「因幡誌」より)
美しい風紋を描く鳥取砂丘の砂の中には、過去の遺物が埋まっています。
これまでに土器や貨幣、鉄砲の銃弾、そして中には人骨といった出土物があり、さまざまな時代に生きていた人たちがこの砂丘とどのように関わっていたのかを推測したり、知ることができると言います。
新砂丘が形成される以前には、古砂丘に積もっていた火山灰層が黒ボク土化したことで砂丘が草原化し、縄文時代の人々が生活できる環境となっていました。
その後、新たに砂が堆積される新砂丘が形成されても場所によってはイネ科植物の腐食物が含まれる黒色の砂層のクロスナが挟まれており、いっとき新砂丘の形成が止まり草原と化していたことが分かり、クロスナからは縄文時代から古墳時代までの土器や石器などが出土しており、これらから砂丘の成り立ちと人の活動との関連性が明らかにできると言います。
平安時代に入る頃になると、温暖化で海面が上昇する平安海進が始まり、気温が上がり砂が乾燥したことで風によって運ばれる砂の量が増えて砂丘の形成が活発化したため、生活できなくなった人たちは砂の害の少ない内陸へと移動していったと考えられ、この時代の遺物が砂の中からは出土しないと言います。
鎌倉時代中期以降は寒冷化し始めたことで風によって運ばれる砂の量が減り、江戸時代に整備された但馬往来と呼ばれる街道の一部が砂丘を通っていたため、通行人や旅行者が落としたであろう江戸時代に流通した貨幣が見つかっています。
「浜坂遊覧 漠々たる白砂点々たる青松漫々たる蒼海綿々たる千代の清流皆是れ浜坂海浜大砂漠の光景なり。実に三万有余鳥取市民の一大極楽園なり。貴賤郎老幼男女の一大運動場なり。」(鳥取案内記)
明治時代には市民の行楽地として活用されたり、春先に家族総出で海を見に行く濱出(はまで)や遠足、運動会が砂丘の限られた場所で行われ、昭和に入ると映画のロケ地として荒涼とした砂丘が注目を浴び、多くの映画が撮影されたと言います。
1954年(昭和29年)には約28万人だった観光客は、鳥取砂丘が国の天然記念物に指定された1955年(昭和30年)には約80万人に増加し、山陰海岸国立公園の特別保護地区に指定された1963年(昭和38年)に砂丘ブームが到来したことによって、1972年(昭和47年)には約228万人を記録します。
このように鳥取砂丘に観光客が多く訪れるようになったことで、当時の観光客が捨てていったのであろう現在ではもう見ることのないレトロなデザインのジュースの空き缶や空き瓶など、数々の落とし物が砂の中から見つかることがあります。
2011年(平成23年)には、砂の中から江戸時代後期から明治時代初期に埋葬されたと推定される、仰向けの状態で手を胸の上で交差させ、縦一列に四体が並んだ身元不明の男女の人骨が発見されました。
「われらこの地に 祖国を守るため 身心を 鍛錬したり」(鳥取聯隊記念碑)
1853年(嘉永6年)のペリー来航によって高まる海岸防備において、鳥取藩では砂丘に砲術稽古場や砲台場が設けられ、1897年(明治30年)から1945年(昭和20年)までは、陸軍歩兵第四十連隊の演習場として行軍・射撃・塹壕掘りなどの軍事訓練で砂丘が使われていたことから、砂の中からは発射された銃砲弾が多数発見されています。
「この法律は、海岸砂地地帯に対し、潮風又は飛砂に因る災害の防止のための造林事業及び農業生産の基礎条件の整備に関する事業をすみやかに且つ総合的に実施することによつて、当該地帯の保全と農業生産力の向上を図り、もつて農業経営の安定と農民生活の改善を期することを目的とする。」(海岸砂地地帯農業振興臨時措置法)
現在とは違い、かつては砂が舞い上がり作物がまったく育たない不毛な地としての認識が強かった砂丘ですが、1919年(大正8年)の史蹟名勝天然記念物保存法の施行をきっかけに鳥取県の文化財として砂丘の価値に目を向けることになり、1933年(昭和8年)に天然記念物として砂丘を申請しますが、砂丘は戦争に向けて軍事訓練の真っ只中であったことから実現はしなかったと言います。
陸軍省の管轄地だった砂丘は、1950年(昭和25年)に払い下げられ、東側は鳥取市が20年間の潮害・風害防備林造林用地としての義務を負って、西側は農地利用として砂丘の研究を進める鳥取大学とが砂丘の大部分を分け合うことになりました。
鳥取市が砂丘の全面緑化を目的とした植林計画を発表すると、観光業者や文化財関係者から文化財として砂丘の保存を求める主張が高まり、植林を推進する側との砂丘緑化論争が勃発しますが、戦後の食糧不足から食糧増産を目的に砂丘を開発することを重要視する決定が下されることになります。
1953年(昭和28年)に、海岸砂地地帯農業振興臨時措置法(砂丘開発法)が施行されたことで、砂丘の植林にかかる費用に補助が出たことから、大規模な砂丘の緑化が強く押し進められることになる一方で、保存を推進する側は文化財としての砂丘の価値を訴え続けた要望が文化財保護委員会に求められたりしたことで、鳥取市は最終的に砂丘の緑化と保全の両方を模索することになり、1954年(昭和29年)に未植林だった110haを残して、そのうちの当時の砂丘全域の10%にも満たない中央部の約30haを文化財として申請し、翌年には風紋の美しさを持つ砂丘の起伏ある独特な地形と砂丘に生育する植物群落の学術的な価値などが国の天然記念物として認められたことで砂丘は保全され、未来の観光地としての鳥取砂丘が整備されていくことになります。

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「砂丘をいくつか越えしが波音の まぢかにきこえて 海まだ見えず」(枝野登代秋)
砂丘は砂漠と違って雨が降るため植物が生育できる環境がありますが、風によって砂が移動するため安定して根が張れないことや保水性の低さ、成長するための栄養の少なさ、夏には砂丘表面の乾砂層が60℃近くになることなどが要因となっており、砂丘ではこれらに対して対抗できる他の環境では見られないような植物群落が生育しています。
鳥取砂丘で生育する植物は、砂の動きが激しい不安定な場所(不安定帯)でも根を張り肉厚な葉を持つコウボウムギ(弘法麦)や春と秋に黄色の花を咲かせるハマニガナ(浜苦菜)など、風が弱く砂の動きが少ない安定した場所(安定帯)にコウボウシバ(弘法芝)やハイネズ(這杜松)など、不安定帯と安定帯の中間の半安定帯には群落をほとんどつくらずに広く分布するビロードテンツキ(天鵞絨点突)など、海岸近くにはラン(蘭)に似ていることからウンラン(海蘭)などと砂丘の場所によって生態の異なる特徴を持った植物が生育し、そのすべてが二年以上にわたって生存する多年生植物です。
砂の移動がほとんどない鳥取砂丘のオアシス周辺の水湿地には、時期によって強い繁殖力を持つ在来植物のコウボウシバの大群落が大きな草原をつくっています。
また、馬の背の西側を見渡すと砂丘の所々が草に覆われ、下の砂があまり見えていないのに気づきます。
以前から在来植物の拡大だけではなく、外来植物の一年生草本のメヒシバ(雌日芝)やオオフタバムグラ(大双葉葎)や多年生植物のコマツヨイグサ(小待宵草)などが侵入して砂丘を覆い始めており、国の天然記念物に指定されてから鳥取砂丘は砂丘の草原化という大きな問題にずっと向き合っています。
「The dunes are shrinking, victims of changing currents, encroaching weeds and crabgrass. Patches of green keep sand from moving freely and ripples from forming. From the Sahara to the Gobi Desert, governments elsewhere are planting trees in a struggle to check expanding deserts. But officials here are focusing their efforts on trying to preserve Tottori’s landmark tourist spot, grain by grain.」(The New York Times「In the Shrinking Dunes, Stalking a Creepy Green Enemy」)
砂丘周辺で生活する人にとって、大風が吹くと大量の砂が農地や道を埋め、ときには家を埋没させるなど人を寄せ付けない砂丘が、農業に利用できるようにすることが江戸時代の頃から望まれていました。
1923年(大正12年)から農業に適した地にするために砂丘地内の砂の移動を止める砂丘の固定化や砂防造林の研究が始まっていき、砂丘地の植林方法として碁盤の目のように静砂垣(せいさがき)を巡らして、クロマツを主体に肥料木としてネムノキなどの広葉樹を混ぜて植える「原方式」は、日本海側の砂丘地開発に広く採用されていきます。
江戸時代の中期以降には砂丘を耕作地にするための植林が試みられていましたが、1948年(昭和23年)に本格的に砂丘を固定化することで耕作地を確保し、また集落や畑を守るために砂地を森林で被覆する飛砂防備保安林の植林を始めます。
年を追うごとに保安林が成長したことで、当初の目的通り砂の移動が大きく制限されていきました。
1955年(昭和30年)に天然記念物となった区域でも砂丘の砂が固定化されていき、日当たりが良いことから至る所で草が生え始め、植生調査が行われた1967年(昭和42年)にはコウボウムギの群落が主に点在する砂丘全域の24%に草が生育しており、1970年(昭和45年)以降から草原化が顕著となり1972年(昭和47年)から二期に分けて保安林の約32haを伐採しても草原化は改善されず、1979年(昭和54年)には在来植物のコウボウムギなどが拡大する中で砂丘の西側には外来植物のメヒシバが優先的な大群落が発生し、砂丘全域の39%に草が生える状態になっていきます。
1991年(平成3年)には西側は多種類の群落で砂丘が見えなくなり、中央部ではコウボウムギとケカモノハシ(毛鴨嘴)の大群落で覆われ、砂丘全域の42%が草原と化してしまいました。
砂丘が草で覆われたことで風による砂の移動が少なくなったことで風紋が見られにくく、植物の群落に砂がたまったことで丘や谷ができるなど地形も変化し、天然記念物としての砂丘の美観が完全に損なわれていきます。
砂丘の草原化は保安林によるものだけでなく、昔から水害の多かった千代川の治水のため土砂の除去や多数の砂防堰が設置されたことで、山地からの砂の供給がほとんどなくなったため、風によって運ばれる砂が減ったことも原因として挙げられています。
1994年(平成6年)にトラクターによる除草が始まり、2004年(平成16年)からはボランティアによる除草が始まったことで、2006年(平成18年)には草原は砂丘全域の19%にまで減り、観光客が参加できる除草体験や、企業や団体が一定の区画を担当するアダプトプログラムを導入した除草活動が始まったこともあり、現在は砂丘全域の20%ほどで維持されていると言います。
砂丘を緑の育つ大地に生まれ変わらせるはずが、ある時を境にせっかく育った木々を伐採してまで草原化を食い止めて元の不毛の地に戻すことは、人為的な植林だったとはいえ環境破壊とも思われる行為であり、これは価値のある環境回復なのだと砂丘周辺の人々や、1955年(昭和30年)以降には日本国内で経済発展に伴う環境問題が深刻化し、1970年(昭和45年)以降には森林伐採や干ばつによる世界的な砂漠化の問題が広く認識され始めていた当時の人々の理解を得ることは、とても困難なことだったのではないかと想像します。

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「こまかいかげろうは砂の間からぬけ出したようにもえて居て海の色は黒いまでに蒼い、水と空と空の色、そのさかえからポッカリういたような連山の姿、いかにも春らしい、たるんだような、なつかしいような景色である。」(宮本百合子「砂丘」より)
西端の白兎海岸から東端の福部町岩戸に至る実際の鳥取砂丘は、1898年(明治30年)には1,332haと推定される砂丘面積を持っていましたが、2001年(平成13年)になると砂丘面積は160haと推定され、100年ほどで約12%まで砂丘面積は縮小しており、残りの大部分は畑地面積、次いで市街地面積と森林面積で占められています。
鳥取砂丘には、すり鉢(摺鉢)に似ていることからスリバチと呼ばれるいくつもの円弧状の急斜面に囲まれた特徴的な窪みがあり、目を引くのが第三砂丘列にほど近い馬蹄形をした「追後スリバチ」で、クロマツが成育した地山(自然の山)を囲んだ窪みは30度以上の傾斜角度に20mの深さがあり、江戸時代には底部に旅人の喉を潤すほどの水が湧き出ていたと言われています。
以前の鳥取砂丘には馬蹄形と弓形のスリバチが数多く存在し、追後スリバチから西に離れた場所には同様の馬蹄形をした「浜坂スリバチ」がありました。
浜坂スリバチの底部には水が湧き出ていたこともあり、遠足などの行楽の地として浜坂スリバチの周囲は賑わいましたが、1943年(昭和18年)に発生したM7.2の鳥取地震によってスリバチが大量の砂に埋まったことで、湧き出る水の量が減ってしまったと言います。
その後も変わらず人々の憩いの場となっていましたが、北西方向の砂地が砂防のための植林の対象となったことで、やがて浜坂スリバチは平坦化し、いつしか埋め立てられて住宅地に変わってしまったため、浜坂スリバチの姿は残された古い写真でのみ知ることができます。
「因幡砂丘内に見出さるゝスリバチなる現象は果たして何者なるか…」(徳田貞一「バルハンとスリバチ」より)
1955年(昭和30年)頃の追後スリバチは深さが36mほどであったが、砂丘列が徐々に内陸側へと移動していったことで砂が堆積し、近年では20mほどになっており、窪みに囲まれた地山に海からの風が当たり、その反流として馬蹄形渦が発生し吹き上がった砂が地山を迂回して風下に運ばれていたことで、追後スリバチは形状が保たれていました。
しかし、1994年(平成6年)から地山のクロマツが松食い虫による松枯れが進み、2005年(平成17年)にかけて伐採されたことで、地山は以前より低くなってしまったと言います。
このことにより、風を受けた地山に馬蹄形渦が発生しなくなったことで、追後スリバチはいずれ砂に飲み込まれて消滅するかもしれない危機に直面しますが、2014年(平成26年)以降に松枯れに対して抵抗性を持つクロマツを地山に植えることによって、追後スリバチの回復と維持を図っています。
現在も年間に100万人ほどの観光客が鳥取砂丘を訪れています。
自然のままだった砂丘に手を加える砂防林の植林によって大きく様変わりを始め、失われてゆく砂丘の存在価値に気づいたことを転機に、風と砂が織りなす美しい景観をこれからも保っていこうと、多くのボランティアや行政、研究者を含めた学識者、そして企業や団体などが、さまざまな課題を解決しようと今もなお立ち向かっています。

「薤 らつきやう 根-薤白といふ温中止痢 人家に載て食用とするなり 又自生のものあり『やまらつきやう』といふ」(因伯産物藥効録)
鳥取県の特産品の一つに挙げられるラッキョウ(辣韮)は、浜坂砂丘の東隣の福部砂丘を中核にして各砂丘などを含めた日本最大規模の作付面積である176ha(2018年)で栽培されています。
江戸時代には因幡国(鳥取県東部)に伝播して主に自家用に栽培されていたラッキョウですが、1914年(大正3年)に濱本四方蔵(1871‑1950)が活用されていなかった福部砂丘に0.5haほどの砂丘畑を作り、そこで販売を目的とした商品としてラッキョウの栽培に成功したことが始まりだと言います。
福部砂丘地域では、1917年(大正6年)にラッキョウ栽培農家による販売組織が結成され、1952年(昭和27年)には払い下げられた砂丘の一部を取得して各農家へ配分されたことで生産量が増え、化学肥料の普及や機械化などによって1966年(昭和41年)に作付面積が100haを超え496tの出荷量になります。
その後は需要に応じた大粒品種への転換や、1977年(昭和52年)の110haにわたるスプリンクラー灌漑施設の運用、加工技術の向上や自然食ブームに乗ったことで1981年(昭和56年)には160haで1,319tの出荷量を誇るまで生産が拡大していきますが、植え付けや根葉切りなど機械化できない手作業があり、大部分が季節雇用のため、年を追うごとに作業員の高齢化などによって生産者数が減少する傾向の中、2022年(令和4年)の福部砂丘地域のラッキョウ出荷量は約110haの作付面積に対して1,550tとなり、鳥取県全体のラッキョウ出荷量(2,120t)の約73%を占めています。
乾燥に強く痩せた地でも育つラッキョウは砂丘での栽培に適していましたが、成長期には適切な水分が必要なため、天秤棒で一斗缶(18L缶)を二つ担いだ人力の灌漑作業は過酷な重労働で「嫁殺し」と呼ばれるほどでしたが、スプリンクラーが導入されたことによってその重労働から解放されるようになったと言います。
福部砂丘の南縁部には直浪遺跡(すくなみいせき)があり、1946年(昭和21年)に干拓工事のために土砂を採取している際に厚く堆積した砂の中から縄文時代から古墳時代にかけての土器や漁具などが出土したことから発見され、1955年(昭和30年)以降の調査によって縄文時代から草原化していた時代が幾度かあり農耕地として利用されるなど断続的ではあったが、人の営みが鎌倉時代まではあったと考えられています。
「月荒き 砂丘は古邑 うづむとや」(森川暁水)
鳥取砂丘に観光に訪れた人がちらほらと見える頃合いになると、どこからともなくラクダが現れます。
砂漠を想像する動物として、ソビエト社会主義共和国連邦からフタコブラクダ(二瘤駱駝)がやってきたのは1960年(昭和35年)のことで、当時の第一書記長だったニキータ・フルシチョフ(1894-1971)の夫人の名を由来に「ニーナ」と名付けられました。
当初はラクダとの記念撮影だけでしたが、観光客からの要望が多かったことから始まったラクダに乗って砂丘を一周できる体験がこれまで好評でしたが、残念ながら2024年(令和6年)からは再びラクダとの記念撮影が中心となってしまったようです。
砂丘内の風通しのよい地には砂の移動によって茶褐色の火山灰露出地が現れていることがあり、主に約5万5千年前に噴火した大山の火山灰で、さらに古くは約9万年前の阿蘇山(熊本県)や約10万年前の三瓶山(島根県)などの灰も含まれていると言います。
砂が単に堆積しているだけだと思っていた砂丘の下には、歴史の事柄が幾重にも積み重なっているのだと実感します。
馬の背の麓のオアシスでは、どこからかやって来たカエルが飛び跳ねる姿やオタマジャクシが目撃されるようです。
あたりをよく観察すると、昆虫などの動物が何やら動いているのを見つけることができ、なかには絶滅が危惧される種もあるようで、何もないような砂丘にも懸命に生きる命があることを知ることができます。
砂の上にどんなに深い足跡を残しても、しばらくして後ろを振り向くと、連なる足跡はうっすらと残るだけになっています。
砂浜の足跡を海の波が消すように、砂丘では風が吹くことで、誰かがそこにいた痕跡をあっという間に消し去ってしまいます。
果てしない歳月をかけ、強い風によって幾度となく砂が運ばれたことで生まれた砂丘は、かつての力を失っているが、文明が続く限り、何も残さず掻き消し、これからも悠久の時を淡々と積み重ねていくのであろうと感じます。

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