福島県・会津若松市へぶらりと…

★飯盛山
「あずさゆみ むかふ矢先は しげくとも ひきなかへしそ 武士(もののふ)の道」
1868年、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍と会津藩を代表とした旧幕府軍の16ヶ月余に渡る内戦『戊辰(ぼしん)戦争』
その一つの舞台となった標高314mの『飯盛山(いいもりやま)』では、1868年8月23日(現在の10月8日)に16〜17歳で編成された343名の『白虎隊』、その士中二番隊42名のうち17名が、飯盛山から炎と煙に包まれる鶴ヶ城(若松城)を目にしながら自刃しました。
喉を突いたが死にきれず唯一生き長らえた『飯沼貞吉』(1854-1931)の手記『白虎隊顛末略記』によると、鶴ヶ城に戻り戦う者と敵陣に切り込み玉砕する者との間に議論になったが、どちらにせよこのまま敵に捕まり生き恥をさらすことを望まず、会津藩士の子弟として潔く自刃の道を選んだと伝えています。
飯盛山には、16名が自刃する以前に飯盛山で命を落とした3名を加えた白虎隊『十九士の墓』があり、会津の各地で戦い亡くなった白虎隊31名の墓と隊士以外の会津藩少年武士の慰霊碑があります。
そこは、静かな広場の奥にあり絶えず人が訪れる墓前には、捧げたお線香の煙と香りで常に満ちています。
「日の御子の 御影仰ぎて若櫻 散りてののちも 春を知るらむ」
生き残ったことを生涯悔いていた飯沼貞吉の飯盛山にあるお墓は、少し離れた場所に戊辰戦争役90年祭が行われた1957年に、遺髪などが移され墓碑とともに建てられました。
もう少し奥に歩くと実際に17名が自刃した地にたどり着き、隊士たちが臨んだ会津の町、そして遠くに小さく鶴ヶ城を見つけることができます。

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★会津さざえ堂
1796年に建立された六角三層の『会津さざえ堂』
正式名称は『円通三匝堂(えんつうさんそうどう)』と言い、内部の構造は二重らせんで右回りに上がる路と左回りに下りる路が別々に存在しており、上がる者と下がる者がすれ違うことがない不思議な建物です。
西国札所の三十三観音像が祀られており、上がり下りの一巡で西国観音札所の巡礼を終えたこととなり、江戸時代の庶民にとって大変人気があったとのことです。

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★鶴ヶ城(若松城)
「いま荒城のよはの月 替らぬ光たがためぞ 垣に残るはただかづら 松に歌ふはただあらし」
土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の『荒城の月』
その歌詞の荒城とは土井晩翠の故郷である仙台市の青葉城址、曲は滝廉太郎の故郷である大分県の岡城址と言われてましたが、土井晩翠が1946年に会津での講演の際に、歌詞の基は『鶴ヶ城』だと発言したことで大騒ぎとなりました。
今では、鶴ヶ城以外にも土井晩翠がりんご狩りに訪れた時に立ち寄った岩手県の九戸城址、滝廉太郎が通った小学校のある富山県の富山城址、東京の宅地跡のそれぞれの地に歌碑が建てられています。
「明日の夜は 何国の誰かながむらん 慣れし御城に 残す月影」
大河ドラマ『八重の桜』の『山本八重』(1845-1932)が鶴ヶ城落城の前夜に詠んだ歌もまた、幕末の動乱から新時代へと移行する際の会津における悲劇を伝えています。
最近では、戊辰戦争で戦死した会津藩士567人を、新政府軍が埋葬を禁じて半年間野ざらしにしたと言う伝聞が覆り、会津藩降伏の10日後には埋葬を命じていた史料『戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳』が見つかりました。そこには山本八重の父の遺体や家老・西郷頼母(たのも)邸で頼母を除く一族21名が自刃した遺体、白虎隊士と思われる遺体の記述もあったそうです。

