三重県にぶらりと…
三重県・伊賀市へ
★白藤滝
「白藤の 如く懸かりし 滝仰ぐ」(稲聲)
標高765.8mの『霊山(れいざん)』の中腹に位置する、かつては30mほどの高さを誇ったが、1896年8月の大洪水で滝口が決壊し滝壺も埋没して15mほどの高さになった直瀑の滝『白藤滝(しらふじたき)』。
道路から徒歩5分の『白藤滝』。
滝へ至る途中の石段からは朱塗りの橋が木々の隙間から見え、橋の辺りから滝の音『瀑声(ばくせい)』が響いてきます。
伊賀の忍びが修行をしたとも言われ、現在では半分ほどの高さになってしまい当時の雄大な姿を見ることはもう叶わない『白藤滝』、滝口から白藤の花の如くほぼ直角に落下する『直瀑(ちょくばく)』の潔さと飛散する水沫の気持ちよさで、岩に腰を下ろしずっと滝の姿を見ていたくなります。
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三重県・亀山市へ
★関宿
「しゃか(釈迦)はすぎ みろく(弥勒)はいまだ出でぬ間の かかるうき 世に 目あかしの地蔵」(一休宗純)
鈴鹿山脈の山裾に位置し、東海道五十三次の47番目の宿場『関宿(せきじゅく・せきしゅく)』。
『関宿』由来の言葉があります。
最盛期には16基あった『関宿』の『山車(だし)』が、狭い街道に勢揃いすると誰も身動きできないことから、もう限界で精一杯という意味の『関の山(せきのやま)』と言う言葉が使われるようになりました。
別の説では、山車が大きくて豪華で、それ以上のものはできないと思われたところから生まれたとも言われています。
父の仇討ちを果たした『関』の女性『小萬(こまん)』の話。
久留米藩の家臣『牧藤左衛門』は、口論により同輩の『小野元成』に殺されます。
『牧藤左衛門』の妻は、『小林軍太夫』と名を変えた『小野元成』が亀山藩に仕えていることを知り、身重の身体で夫の仇討ちのため旅に出ました。
鈴鹿峠を越え『関宿』に着いた頃には心労により旅籠『山田屋』の前で行き倒れてしまいます。
山田屋の主人と女将に助けられますが、難産の末に生まれた女児『小萬』を二人に託し息を引き取りました。
年月が経ち、成長した『小萬』は亡き母の思いを継いで父の仇討ちをする決心をし武芸に励みます。
1783年、18歳になった『小萬』は馬子姿に変装して亀山城下の辻で仇である『小野元成』を討ち、見事に本懐を遂げました。
その後の『小萬』は『山田屋』にとどまり、1803年に38歳でその生涯を終えました。
1984年に『重要伝統的建造物群保存地区』に指定され、約1.8kmにわたって伝統的な家屋が並ぶ『関宿』では、「関の山」から一休さんの頓智と仇討ち、そして美味しい「山菜おこわ」や名物「志ら玉」を楽しめました。